欧州情勢

 承前、ナポレオン漫画について。
 
 最新号では久しぶりにエジプトでなく欧州の話も出てきた。まずシエイエスの総裁就任だが、色々な本に紹介されているその日付は1799年5月16日("http://books.google.com/books?id=B7kPAAAAQAAJ" p186など)。前にも書いた通りアブキールの陸戦が7月25日なので、ここで時系列は過去に少し遡ったことになる。まあこのくらいのズレならそう気にすることもないだろう。
 フーシェの警察大臣就任は同年7月20日("http://books.google.com/books?id=_OcTAAAAYAAJ" p521など)。こちらはほぼアブキールと同時期だ。既にタレイランは外務大臣となっているので、アブキール後にこの3人が大臣及び総裁として顔を合わせるのは別におかしくない。
 もっともシエイエスがこの時点でボナパルトを剣と認識していたかというと少し微妙。フーシェによればシエイエスは確かに「愚か者とおしゃべりな者には何事も成し遂げられない。我々が必要なのは二つだけ、頭脳と剣だ」(Mémoires de Joseph Fouché, duc d'Otrante"http://books.google.com/books?id=fJkQAAAAYAAJ" p82)と話していたようだが、その際にシエイエスは「ジュベールの協力を確信していた」(p82)。
 リュシアン・ボナパルトも同じことを述べている。8月のノヴィの戦いでジュベールが戦死した後にシエイエスは何人かの将軍に働きかけてみたが、いずれも上手くいかなかった。同じ陰謀に加担していたリュシアンに向かってシエイエスはため息と伴に「もはや我々に剣はない。ああ、どうして君の兄上がここにいないのだ!」(Mémoires de Lucien Bonaparte, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=92IOAAAAQAAJ" p249)と嘆いたのだそうだ。ボナパルトを剣にしたくてもできない、というのがこの時点でのシエイエスの認識だった。
 
 1799年の欧州戦役についても多少の言及があるが、新聞売りの少年が話しているだけで戦闘シーンがあるわけではない。従ってオストラッハ"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/ostrach2"とシュトックアッハ"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Stockach_(1799)"で勝利したカール大公も、敗れたりとはいえ少ない兵力で味方より多くの損害を敵に与えたジュールダンも、名前しか出てこない。出番を奪われたのはミュラだけではなく彼らも同じってことだろう。
 でも彼らは名前が出てきただけマシかもしれない。イタリア方面軍については「オーストリア軍に敗れてアッダ川まで後退。ロシアのスヴォーロフ元帥がオーストリア軍と合流!」としか書かれていない。マニャーノの戦い"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Magnano"でシェレール率いるフランス軍に勝利したパウル・クライ"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/kray.html"は完全に無視されているのだ。活躍の場が完全に奪われたという意味では、今回彼が最大の被害者かもしれない。
 連合軍に相次いで敗れるイタリア方面のフランス軍指揮官たちは、むしろ登場しなくて幸いと思っているかもしれない。もちろん今後の展開次第ではもしかしたらイタリアにおけるスヴォーロフの戦いぶりが描かれる可能性があるので、彼らも嫌な場面から完全に逃れられたとは言えないのだが、上手く行けばシェレールだけでなくアッダ川で退路を立たれて降伏したセリュリエ、トレビア河畔で完敗したマクドナルドとその部下のヴィクトール、ノヴィで戦死したジュベールと降伏を強いられたペリニョン、グルーシー、さらにモローやグーヴィオン=サン=シールといった連中が軒並み胸をなでおろすことになりそうだ。
 その一方で、今回のところは戦闘とは全く無縁のはずのマセナが随分と目立っている。こちらはむしろ第二次チューリヒの戦いがきちんと描写されることを望んでいるだろう。ただし、注意が必要なのだがチューリヒの戦いにスヴォーロフは参戦していない。というか厳密にいえばマセナとスヴォーロフは同じ戦場で顔を合わせたことすらない。スヴォーロフが率いてきたロシア軍をマセナがムオタタールで攻撃した時、スヴォーロフは別の戦場に移動していた。マセナが相手をしたのはロシア軍の後衛を任されたローゼンベルクの部隊。そして、フランス軍は敗北している。
 このムオタタールの戦い(1799年9月30日―10月1日)には、ロシア軍が8000人から9000人、フランス軍が9000人から1万人参加したと見られている(Christopher Duffy "Eagles over the Alps" p231)。フランス軍の損害は800人で大砲を5門失ったとされているが、中には捕虜が1000人から1600人いたとの説もあるそうだ(p236)。ロシア軍後衛を叩き潰すつもりだったマセナは、逆にムオタタールの渓谷から叩き出されてしまった。以上、もし今後スイスでの戦闘が描かれるとすれば完全にネタばれとなる話。
 
 それにしても、この第二次対仏大同盟戦争でスイスが戦場となったのはなぜだろう。一つにはフランス革命戦争及びナポレオン戦争の大半の時期においてスイスが中立だったことがある。まず盟約者団としてまとまっていたスイスは革命戦争初期には中立を維持していた。1798年のフランス軍進入とエルヴェティー共和国成立によってスイスは中立を放棄し、フランスと同盟関係に入る。その後に起きた第二次対仏大同盟戦争で戦場になったのはそういう理由だ。
 その後、スイス国内は中央集権主義者と連邦主義者に分裂し、内紛状態に陥った。ナポレオンが仲介に入り、旧体制の復活と再度の中立が保障されたという("http://www.swissworld.org/jp/history/the_18th_century/switzerland_and_napoleon/"参照)。1805年に行われた第三次対仏大同盟戦争で再びスイスが戦場から外れたのはそういう理由だ。ただ中立になったのは「スイス領」だけであり、スイス人はナポレオンのために兵力を一定数供給し続けた。
 1799年にスイスが戦場となった政治的背景は分以上の通りだが、それだけでは山間部の不便な土地を巡って大軍が争った理由の説明にはならない。スイスが戦場になった理由の背景には、おそらく18世紀的な戦略論があったのだろう。
 ティエールはフランス革命史の中で、1799年戦役における連合軍の作戦計画について「フランス軍のものと同様、山岳部が平地のカギになるという原則に基づくものだった。かくしてかなりの戦力がティロルとグリゾンを守るため、そしてもし可能ならアルプス山脈をフランス軍から奪い取るために積み上げられた」(The History of the French Revolution, Vol. V."http://books.google.com/books?id=u-ETAAAAYAAJ" p303)と述べている。位置取り戦争と言われていた18世紀的な観点では、山岳部を確保することは勝利への近道だと思われていたようだ。
 そうした戦略観があったことは、同時代の軍事理論家であるビューローの議論を見れば分かる。彼は1800年戦役について記したA Strategic Analysis of the Hohenlinden and Marengo Campaignsの中で、山岳部を押さえることが平地における優位につながると何度も指摘している。「[オーストリア軍による]ティロルへの行軍には、偉大な結果が必ずついてきただろう。(中略)岩と山の要塞であるティロルに、バイエルンとロンバルディアを同時に守るべく十分な兵が駐屯していることを踏まえるなら、フランスがイタリアを保持し続けることはありそうもない」(p16)といった文章がその代表だ。
 そのせいもあってか、1799年戦役開始時点では両軍とも山岳部にかなりの数の兵力を配備した。AllisonのHistory of Europe, Vol. IV."http://books.google.com/books?id=b-k1AAAAMAAJ"によれば、スイスのマセナが率いていた兵力は4万5000人と、ジュールダンのドナウ方面軍(4万2000人)より多いくらいだったという(p220)。連合軍側もしかりで、ドナウ河畔に展開していたカール大公の軍勢7万8000人に対し、ティロルとグリゾンには4万6500人、フォーラルベルクには2万5400人の兵力を配置しており、平野部に負けないほどの規模の軍勢を展開していたことが分かる(p221)。
 だが、ボナパルトはこうした18世紀の常識に正面から異を唱えた。セント=ヘレナで彼はビューローの書物に対して容赦ないツッコミを書き込んでいる。例えば「誰も山岳部を攻撃などしない。ティロルであれスイスであれ、平地を使って迂回するだけだ」(p16n)といったものが一例。その言葉通り、ナポレオンは欧州の平野を駆け抜けて連合軍を次々と打ち砕いた。以後、この18世紀的戦略観は廃れ、位置取りではなく敵主力を最大の目標とした戦い方が一般的となる。でも彼以前には「山が平地より重要」という実態からかけ離れた概念が戦略に影響を与えていたのはおそらく事実。軍人という現実主義でなければやっていけない商売でも、理論優先になってしまう面はあったようだ。
 
 最後に変人元帥について。今回のところはほとんど顔見世程度だったが、水を浴びている(潜っている?)場面はThe History of the Campaign of 1799"http://books.google.com/books?id=tRUPAAAAYAAJ"のp250-251にある「スヴォーロフは(中略)毎朝バケツ一杯の水を頭から浴びていた」あたりが、ケエエエと叫んでいるのは「朝になるとドラムの音の代わりに彼がテントから出て雄鶏の鳴き声を真似して3回鳴いた。軍にとってそれは目覚めの合図であり、時には戦闘へ進軍する合図でもあった」("http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/29605593.html")などが元ネタだろう。
 さて、果たして彼は今後も登場するだろうか。普通に考えればこれだけの変人をこの作品で使わない手はない筈なんだが、何しろスヴォーロフは実はマイナー人物。日本語で彼の具体的な活動について書かれたものはほとんどない。今後の彼の活躍をどう描くのか、背景となる情報があまりないのだ。まさか彼の変人的行為ばかり描写して終わらせる訳にもいかんだろう。作者の腕が問われるところかもしれん。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック