アブキール戦

 承前。ナポレオン漫画最新号続き。
 
 肝心な部分は完璧に省略されたが、一応アブキール関連で描かれた部分と史実との比較をしてみよう。最初にベルティエがマルモンからの報告として連合軍の戦力を「戦艦13隻、フリゲート艦9隻、砲艦30隻、輸送船90隻」と述べているが、実際にLa Jonquièreが紹介しているマルモンから送られてきた最初の報告(収穫月23日―7月11日付)によれば、その数は「戦艦7隻、フリゲート艦5隻、それより小型の船及び輸送船が58隻、合計69―70隻」(L'expédition d'Égypte, Tome V"http://books.google.com/books?hl=ja&id=3AoIuX_6_CgC" p326)であった。この時点でマルモンは連合軍の兵力を1万から1万2000人と見積もっている。
 翌12日、マルモンは新たな報告書を書く。「昨日夕の手紙であなたに伝えた船舶数ですが、それに続いた船は5から6隻だけでした。彼らはアレクサンドリアの前を通過し、アブキールへ向かいました。かくして本日のトルコ艦隊は90隻から100隻となりました」(p326)。正直、前日の手紙とは計算が合わないようだが、いずれにせよ漫画の報告とは違う数字が載っている。
 ボナパルトがダヴー「師団」と言っているのも史実に反する。そもそもダヴーはこの時期まだ准将(général de brigade)であって、彼が率いていたのも師団ではなく騎兵旅団。前回に紹介した会戦当日のダヴーへの命令でも「そなたの旅団を構成する騎兵部隊を可能な限り合流」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième."http://books.google.com/books?id=iFQUAAAAQAAJ" p536)するように命じており、ダヴーが指揮していたのが「旅団」であることが分かる。
 最後に出てくる「2万のトルコ軍」というのも、おそらく史実に反する。もっともこの点を間違えているのは漫画だけではなくwikipediaも同じ。日本語wikipediaだけでなく英語"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Abukir_(1799)"やイタリア語"http://it.wikipedia.org/wiki/Prima_battaglia_di_Aboukir"も2万人と記しているし、フランス語"http://fr.wikipedia.org/wiki/Bataille_d%27Aboukir_(1799)"、ドイツ語"http://de.wikipedia.org/wiki/Schlacht_von_Abukir_(1799)"、スペイン語"http://es.wikipedia.org/wiki/Batalla_de_Abukir_(1799)"などは1万8000人という数字を出している。
 元ネタとなっているのはボナパルト自身。彼が熱月17日(8月4日)に書いた総裁政府宛の報告書の中に「かくしてこのアブキールの戦闘はオスマン政府に1万8000人の兵と大量の大砲という犠牲を払わせました」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p550)という記述がある。ただ、この数字は総裁政府宛の第一報(7月28日付)には登場しない。いつもの彼の手だが、後から数字を膨らませた可能性があるのだ。
 オスマン軍の戦力を知りたければ、敵であるフランス側の言い分より連合軍側の証言を見た方がいいだろう。まずオスマン軍の司令官だったムスタファ=パシャだが、戦闘当日(7月25日)に彼が大宰相(サドラザム)の秘書に宛てて記した報告書のフランス語訳がLa Jonquièreに載っている。こんなものまであるとは本当に凄い本だ。報告書の内容は以下の通り。
 
「サファル7日木曜日(収穫月23日―7月11日)、アレクサンドリア遠征軍を構成する陸軍及び艦隊を指揮するムスタファ=パシャは、アブキール湾に到着しました。5日後、彼は兵を上陸させ、7時間の戦闘の後にムスリムが勝利しました。要塞を囲む堡塁が奪われた後に、要塞は降伏しました。そこには約500人の異教徒がおり、誰一人として逃げられませんでした。
 ボナパルト将軍はロゼッタから12リュー離れたラーマニエに1万人の兵と伴に到着。彼らはそのうち6000人をアブキール方面のベルケットという場所まで押し出しました。手元に到着した情報によれば、アレクサンドリアにいる5000人の兵も我々を奇襲すべくアブキールへ向かうとのことです。我々について言えば、戦闘可能な状態にあるのはたった7000人です。しかし弱きものを守る神は、預言者のご加護によって異教徒に対する勝利を我々にもたらしてくれるでしょう」
L'expédition d'Égypte, Tome V, 406n
 
 オスマンの同盟国、英国のシドニー・スミスはどう述べているのか。8月2日にネルソン宛に記した報告書では、アブキールのオスマン軍は「思いもよらないことに、報告されているような1万5000人ではなく5000人でしかありませんでした。私と伴にやって来たハッサン=ベイも2000人しか持っていません」(The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I."http://books.google.com/books?id=WozFAAAAMAAJ" p364)とある。
 一方、スミスと伴に行動していたキースが8月11日付で記した手紙には「[ムスタファ=]パシャはこの成功に意気上がり、約8000~9000人から成る彼の全軍(書類上及び公式には1万5000人と報告されている)を上陸させた」(p373)と書かれている。ムスタファ=パシャやスミス自身が述べた数字(7000人)よりはマシだが、ボナパルトの報告と比べるなら半分以下の数字でしかない。
 フランス軍側にも、ボナパルトの数字ではなく連合軍側に近い数字を報告している人物がいる。ボナパルトの後に東方軍司令官となったクレベールは1799年10月8日付の総裁政府への報告書で、「彼[ボナパルト]は事実、[アブキールに]上陸した9000人のトルコ軍ほぼ全てを粉砕しました」(Kléber et Menou en Égypte depuis le départ de Bonaparte"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k442725" p82)と記しており、アブキールに上陸した部隊数を約9000と見積もっている。
 wikipediaがそうであるように、現在に至ってもボナパルトによる宣伝くさい数字の方がムスタファ=パシャやシドニー・スミスの数字よりもよく知られている。2004年出版の本"http://books.google.com/books?id=abPUKDlNmRsC"のp330や、2006年出版の本"http://books.google.com/books?id=4Pzu7_QhfU8C"のp55で1万8000人や2万人という数字がなお登場しているくらいだ。にしてもどうして英語の本なのに同じ英語圏出身者であるスミスの数字よりフランス語が元ネタであるボナパルトの数字を紹介するんだろうか。少しはスミスの言うことに耳を貸してやれよ。
 
 まだまだ続く。
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