承前。ナポレオン漫画最新号続き。
「サファル7日木曜日(収穫月23日―7月11日)、アレクサンドリア遠征軍を構成する陸軍及び艦隊を指揮するムスタファ=パシャは、アブキール湾に到着しました。5日後、彼は兵を上陸させ、7時間の戦闘の後にムスリムが勝利しました。要塞を囲む堡塁が奪われた後に、要塞は降伏しました。そこには約500人の異教徒がおり、誰一人として逃げられませんでした。
ボナパルト将軍はロゼッタから12リュー離れたラーマニエに1万人の兵と伴に到着。彼らはそのうち6000人をアブキール方面のベルケットという場所まで押し出しました。手元に到着した情報によれば、アレクサンドリアにいる5000人の兵も我々を奇襲すべくアブキールへ向かうとのことです。我々について言えば、戦闘可能な状態にあるのはたった7000人です。しかし弱きものを守る神は、預言者のご加護によって異教徒に対する勝利を我々にもたらしてくれるでしょう」
L'expédition d'Égypte, Tome V, 406n
オスマンの同盟国、英国のシドニー・スミスはどう述べているのか。8月2日にネルソン宛に記した報告書では、アブキールのオスマン軍は「思いもよらないことに、報告されているような1万5000人ではなく5000人でしかありませんでした。私と伴にやって来たハッサン=ベイも2000人しか持っていません」(The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I."
http://books.google.com/books?id=WozFAAAAMAAJ" p364)とある。
一方、スミスと伴に行動していたキースが8月11日付で記した手紙には「[ムスタファ=]パシャはこの成功に意気上がり、約8000~9000人から成る彼の全軍(書類上及び公式には1万5000人と報告されている)を上陸させた」(p373)と書かれている。ムスタファ=パシャやスミス自身が述べた数字(7000人)よりはマシだが、ボナパルトの報告と比べるなら半分以下の数字でしかない。
フランス軍側にも、ボナパルトの数字ではなく連合軍側に近い数字を報告している人物がいる。ボナパルトの後に東方軍司令官となったクレベールは1799年10月8日付の総裁政府への報告書で、「彼[ボナパルト]は事実、[アブキールに]上陸した9000人のトルコ軍ほぼ全てを粉砕しました」(Kléber et Menou en Égypte depuis le départ de Bonaparte"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k442725" p82)と記しており、アブキールに上陸した部隊数を約9000と見積もっている。
wikipediaがそうであるように、現在に至ってもボナパルトによる宣伝くさい数字の方がムスタファ=パシャやシドニー・スミスの数字よりもよく知られている。2004年出版の本"
http://books.google.com/books?id=abPUKDlNmRsC"のp330や、2006年出版の本"
http://books.google.com/books?id=4Pzu7_QhfU8C"のp55で1万8000人や2万人という数字がなお登場しているくらいだ。にしてもどうして英語の本なのに同じ英語圏出身者であるスミスの数字よりフランス語が元ネタであるボナパルトの数字を紹介するんだろうか。少しはスミスの言うことに耳を貸してやれよ。
まだまだ続く。
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