1793年の初頭、政府はアルプス方面軍をイタリア方面軍から分離し、1793年2月15日に後者の指揮をビロン将軍に委ねた。いくつかの戦闘がラスカレーナ、ソスペロ、レントスカの高地で行われ、両軍はそれらを交互に占拠した。しかし最後にソスペロはフランス軍の占領下にとどまった。前衛部隊はソスペロとブレリオ間にあるブルイに宿営した。4月11日、ビロンはレントスカ及びベルベデーレに至る高地を占拠し、多くの捕虜と数門の大砲を奪った。しばらく後に彼はラ=ヴァンデ軍の指揮を執るため呼ばれ、その後をブリュネ将軍が継いだ。増援を受けた軍はいまや実働兵力3万人に達した。プロヴァンスの守備隊、兵站拠点の兵、そして病人を合わせれば、各連隊が報告した数は6万8000人まで膨れ上がった。敵も自身の徴兵及び立派なオーストリア師団の増援を受けた。彼らは自身の拠点を数多の砲台及び陣地構築によって要塞化した。彼らの右翼はユテルの宿営地に拠り、中央の前衛はコル=デ=ラウスに、左翼はニースとトリノ間の道路と交差する防御拠点であるサオルジオにあった。
ブリュネ将軍は正当にも、敵をコル=ディ=テンドの彼方まで追いやり、彼の軍をより強力な拠点でかつ守るうえで少ない数しか必要としないアルプスの山頂、河の水源に配置するために、マリティーム・アルプス全体を手に入れるのを望んでいた。この計画は極めて合理的であり、彼はそれを実行するのに十分な戦力を保有していた。しかし、彼はこれほど重要な作戦を指揮するのに必要な軍事的才能を有していなかった。1793年6月8日、彼は全戦線に渡って全面攻撃を仕掛けた。フランス兵はできる限りのことをした。彼らは奪うことが可能なあらゆる拠点を奪取したが、敵が占拠しているフルシュとラウスの宿営地は難攻不落だった。6月10日、ブリュネは頑として同じ努力を繰り返したが、ピエモンテ軍が栄光を獲得しフランス擲弾兵の精華が破壊されただけだった。今やピエモンテ軍の陣地は突破するには強固すぎると考えられ、しかも彼らはそこの要塞化を進めた。8月、トゥーロンの裏切りはイタリア方面軍にそこを包囲するための分遣隊を送る必要を生ぜしめた。しかし、弱体化しながらも軍は10月に行われたヴァール川を越えてプロヴァンスに侵入しようとするピエモンテ軍の試みを全て撃退した。4000人の戦力を持つ彼らの師団の一つは、デュゴミエの手によってジレットで敗北しほとんど壊滅に追いやられたため、彼らは元の拠点に戻った。不正にも裏切りの罪を問われ、またマルセイユの暴動に好意を示したため、ブリュネはパリの革命裁判所へ引き渡され、断頭台の露と消えた。
トゥーロン奪回の後、ナポレオンは1794年の最初の2ヶ月を地中海沿岸の要塞化と武装に費やした。彼は3月にニースに到着し、それから砲兵の指揮を執った。軍の司令官はデュモルビオン将軍だった。かつて擲弾兵大尉だったこの将軍は、イタリア方面軍において1792年と1793年の戦役で准将と将軍の地位を得た。彼はあらゆる拠点について熟知しており、6月にブリュネの下で行われた攻撃の一つを指揮していた。60歳で、明快な理解力と個人的勇気を持ち、そして相当に情報通だったが、痛風に苦しんでおり常にベッドにいた。彼は何ヶ月も活動できないまま過ごすことがあった。ゴーティエ将軍が主計総監、デサンティエが検閲総監、アレルが会計と物資管理、ドゥジャル将軍が砲兵副総監、ガッセンディ大佐が軍用地監督、ヴィアル将軍が工兵指揮官、マッカール、ダルマーニュ、マセナらが様々な部隊の指揮官を務めていた。司令部は2年間ニースにあったが、そこは前線から10リューも離れており、戦火が及ぶことはなかった。
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