Zamoyskiに続いてCurtis Cateの"Russia 1812"を読んでいる。1985年に書かれたものだが、これまで読んだ範囲で判断すると内容はなかなかのもの。Alexander Mikaberidzeが高い評価をしているだけのことはある。
それにしてもバルクライ=ド=トリーをこれだけ高く評価している本はおそらく初めて見るのではないだろうか。通常、1812年戦役を描いた本はどうしてもトルストイの「戦争と平和」に引きずられてクツーゾフを讃えがちだし、そこまで行かなくてもバルクライについては同僚から批判を浴びたことに焦点を当てて記していることが多い。戦役初期において彼が果たした役割については「非難の対象」という位置づけばかりが目立つ。
Cateの記述はそうではない。彼はまずバルクライは1807年の時点から、ナポレオンと戦う場合にはロシアの広大な領土を活用して退却戦術を採るべきだと考えていたのだ、と指摘する。アイラウの戦いにおける傷を癒やしていたバルクライからこの話を聞いたあるドイツ人が1812年4月にそれをマテュー・デュマに伝え、彼はベルティエに報告したという。そのドイツ人によればバルクライの発想はハンニバルに対峙したファビウスの戦略と類似していたのだとか。
実際、バルクライは単に退却を考えるだけでなく、焦土戦術も視野に入れていた。彼は第3軍を率いるトルマソフに対して「あらゆるもの、特に病院を引き裂き、敵が使えないようにせよ。彼らが補給品や輸送品に手を触れるあらゆる機会を奪え。橋、ボート、火薬庫を焼き払い破壊せよ。利用可能な全ての車両と馬具を持ち去るか壊せ。住民には彼らの生命維持に必要な分だけを残せ」(Cate "Russia 1812" p113)と命令している。Zamoyskiはロシア軍が体系的な焦土戦術を採用しなかったと主張しているが、Cateによればバルクライは少なくともそれを「意図」したようだ。
とはいえ、あくまでこれはバルクライの意図。実行に移すにはかなりの困難があったことはCateも指摘している。まず何より皇帝アレクサンドルから高い評価を得ていたのは彼の作戦ではなくプフールの打ち出した「ドリッサ要塞化」策。軍人の間でこの作戦の評判が悪かったのは誰もが指摘している通りで、Cateによればロシア軍はこの作戦が実行に移されることがないよう、要塞構築をわざとボイコットしていた可能性があるという。
なお、アド・テクノス「ナポレオンモスクワへ」に収録されている手塚弘保の「ナポレオンのロシヤ侵攻戦(1812年の祖国戦争)研究」では、戦後150年が経過した1962年にソ連でまとめられた論文を元にバルクライ案について「その主要の防禦線を西ドヴイナ、ドニエープル地方と定めて、ここに要塞の列と食糧軍需物資の貯蔵所の列を整備する」ものだと指摘している。だが、Cateによればこれはアレクサンドルとヴォルコンスキーが1810年時点でまとめた案であり、バルクライはそれに対して要塞線の整備には25年はかかるからそれよりワルシャワ大公国に対する先制攻撃を仕掛けた方がいいと提案したことになっている。いずれが正しいのかは不明だが、手塚の論文が(というかおそらく1962年のソ連学会が)明らかにクツーゾフ贔屓なのに対し、Cateはトルストイによって持ち上げられたクツーゾフ像に異論を提示しているなど、両者の根本的な立場にずれがあるのは確かだ。
他に注目点としては、まずフランス陸軍省の哀れな事務員ミシェルの話がある。文字が綺麗だったことを理由に陸軍省で(文章を筆写するため)雇われていたミシェルは、そこで得た知識をロシアのスパイに売っていた。ティルジット直後はそれも大きな問題にはならなかったが、やがて露仏関係が怪しくなってくるとミシェルも自分がやばい橋を渡っていることに気づいた。だが、一度スパイ行為に手を染めた人間は簡単には足を洗うことはできない。ロシア側から「情報を寄越さなければお前がしてきたことをばらす」と脅され、情報提供を続けてきたミシェルだったが、ついにばれてロシア遠征前にギロチン送りになったという。
ロシア遠征開始時に大陸軍の右翼を率いたジェローム・ボナパルトについても面白い指摘をしている。Cateによれば彼は「デコイ」。軍事経験に乏しいジェロームを敢えてワルシャワ方面の指揮官にしたのは、それを見たロシア軍が国境を越えてワルシャワ大公国に攻め込んでくるのを期待したからだという。大陸軍右翼の役目がおとりであるとの指摘は他にもあるが、ロシア軍が国境を越えて攻めてくる可能性に言及しているのは少ないのではないだろうか。Cateの言を信じるのなら、カール12世の失敗に学んだナポレオンは、できれば国境のこちら側でロシア軍と戦いたがっていたという。
後はこぼれ話だが、戦役開始のしばらく前にヴィルナで皇帝アレクサンドルを見た19歳の娘の感想を紹介しておこう。
「何年も後になっても彼女はアレクサンドルのにこやかな『曇りのない』青い瞳と、注意深く整えられた柔らかい琥珀色の髪(中略)などを鮮やかに覚えていた」
Cate "Russia 1812" p111
陛下の『注意深く整えられた』ステキカット"http://www4.ocn.ne.jp/~davout/Neta1.htm"は、若い女性にとってはさして気になるものではなかったようだ。世の男性諸君には朗報ではなかろうか。
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