タボール山の戦いのクライマックスは、ボナパルト率いる救援が到着する場面だ。苦戦するクレベールの兵士たちがアクル方面から接近する銃剣の光を見て「ちびの伍長が来た」と叫んだ、という話の元ネタはセント=ヘレナのナポレオンのようだ(Guerre d'Orient, II. p86)。これまた他のソースが見つからない。ただ、クレベールの作戦そのものに関するナポレオンの説明に比べるとあまり信頼度は高くないだろう。少なくとも総裁政府への報告や共和国暦8年に出版されたベルティエの本などにはこうした話は見当たらない。
それにしても、どうしてボナパルトは間に合ったのか。彼はクレベールが夜襲を始める前、15日の午後1時には増援のボン師団を率いてアクルを出発したという(Guerre d'Orient, II. p85)。「ナポレオンは彼[クレベール]が自ら選んだのではない戦場に、しかも夜明けにならないと到着できないであろうことを予想した。彼はそこで[敵]全軍に包囲され、大いに危険に晒され、同師団とそして[アクル]攻囲軍までもが危うくなるだろう」(p86)と見て取ったボナパルトが、とにかくクレベールを救出するためすぐに出発した、というのがセント=ヘレナのナポレオンによる説明だ。
ただし、セント=ヘレナ以前の彼はこうした説明はしていない。Relation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrieによれば、オスマン帝国軍主力が南方に移動したとのクレベールの連絡、及びサフェットにいた哨戒部隊が攻撃を受けたとの情報を受けて「ボナパルトは、数の優位を頼りに我々の宿営地にまでちょっかいを出してくるであろうこの多数の部隊を追い払うため、全面的かつ決定的な会戦が必要だと判断した」(p91)としか書いていない。クレベールの行動がもたらす危険性を予期したから、という説明はそこには存在しないのだ。
実際のところはどうだったのだろう。さらに遡ってタボール山の戦い直前にボナパルトが出した命令を見てみる。15日にボン将軍に出された命令ではナザレとスーラン村の間まで進出し「クレベール将軍と連絡を取るように」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p400)と書かれているが、クレベールが危険に陥るからといった説明はされていない。同日付のクレベールへの命令でも「司令官はボン師団の一部と一緒にナザレとスーラン村の間に陣を敷く。そなたの布陣について可能な限り早く報告を送るように」(p400)とあるが、危険だから夜襲はやめろといった文言は見当たらない。
実はその前日、14日の命令でボナパルトは「敵がその大胆さを増してそなたの陣地を攻撃するところまできたとの最初の知らせが司令官に届くや否や、司令官は決定的な優位を得るため自らそこに出向くだろう」(p396)とクレベールに述べている。これを見る限り、ボナパルトがアクルを出立する決断をしたのは、クレベールの失敗を予想したからではなく、単にオスマン軍との決戦が迫ったと判断したのが理由のように思える。これまたあくまで推測に過ぎないが。
理由が何であれ、ボナパルトの決断は結果として大正解だった。彼の到着は戦況を劇的に変え、オスマン軍は全面壊走に移った。マレンゴではドゼーが戦場に到着してフランス軍を救ったが、タボール山でフランス軍を救ったのはボナパルト自身だ。この日の彼は、兵士たちの眼にきっと神様のような存在として映っていたことだろう。
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