世界と同じくらい…

 承前。タボール山の戦い。敵を迂回して夜襲をかけるというクレベールの決断は、彼と麾下の部隊を危機に陥れた。16日朝、奇襲に失敗した彼の部隊は、オスマン帝国の大軍(Relation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrie"http://www.archive.org/details/relationdescampa00bertuoft"によれば騎兵2万5000騎、Guerre d'Orient, II."http://books.google.com/books?id=h7sNAAAAIAAJ"によれば全体3万人)に囲まれた。彼は方陣を組み、その攻撃に抵抗した。
 総裁政府への報告(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième."http://books.google.com/books?id=iFQUAAAAQAAJ" p421)では方陣はcarréと単数形になっているが、Relation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrieでは「2つの方陣」deux carrés(p94)と書いている。Guerre d'Orient, II.には数は載っていないがcarrés de Kléber(p87)とやはり複数形だ。
 これについても正確なところはクレベール自身の報告が欲しいところ。でもそれはない。ただ、最初は2つの方陣を敷いており、後に兵力が減ってきたためそれを1つにまとめたという漫画にも描かれていた話は、1818年出版の本(Victoires, conquêtes, désastres, revers et guerres civiles des Français, Tome Dixième."http://books.google.com/books?id=OrsWAAAAQAAJ" p199)に載っている。残念ながら同書にはどのソースから引用したのかが書かれていないのだが、セント=ヘレナのナポレオンより前にこの話が紹介されていたのは事実のようだ。
 
 タボール山の戦いのクライマックスは、ボナパルト率いる救援が到着する場面だ。苦戦するクレベールの兵士たちがアクル方面から接近する銃剣の光を見て「ちびの伍長が来た」と叫んだ、という話の元ネタはセント=ヘレナのナポレオンのようだ(Guerre d'Orient, II. p86)。これまた他のソースが見つからない。ただ、クレベールの作戦そのものに関するナポレオンの説明に比べるとあまり信頼度は高くないだろう。少なくとも総裁政府への報告や共和国暦8年に出版されたベルティエの本などにはこうした話は見当たらない。
 それにしても、どうしてボナパルトは間に合ったのか。彼はクレベールが夜襲を始める前、15日の午後1時には増援のボン師団を率いてアクルを出発したという(Guerre d'Orient, II. p85)。「ナポレオンは彼[クレベール]が自ら選んだのではない戦場に、しかも夜明けにならないと到着できないであろうことを予想した。彼はそこで[敵]全軍に包囲され、大いに危険に晒され、同師団とそして[アクル]攻囲軍までもが危うくなるだろう」(p86)と見て取ったボナパルトが、とにかくクレベールを救出するためすぐに出発した、というのがセント=ヘレナのナポレオンによる説明だ。
 ただし、セント=ヘレナ以前の彼はこうした説明はしていない。Relation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrieによれば、オスマン帝国軍主力が南方に移動したとのクレベールの連絡、及びサフェットにいた哨戒部隊が攻撃を受けたとの情報を受けて「ボナパルトは、数の優位を頼りに我々の宿営地にまでちょっかいを出してくるであろうこの多数の部隊を追い払うため、全面的かつ決定的な会戦が必要だと判断した」(p91)としか書いていない。クレベールの行動がもたらす危険性を予期したから、という説明はそこには存在しないのだ。
 実際のところはどうだったのだろう。さらに遡ってタボール山の戦い直前にボナパルトが出した命令を見てみる。15日にボン将軍に出された命令ではナザレとスーラン村の間まで進出し「クレベール将軍と連絡を取るように」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p400)と書かれているが、クレベールが危険に陥るからといった説明はされていない。同日付のクレベールへの命令でも「司令官はボン師団の一部と一緒にナザレとスーラン村の間に陣を敷く。そなたの布陣について可能な限り早く報告を送るように」(p400)とあるが、危険だから夜襲はやめろといった文言は見当たらない。
 実はその前日、14日の命令でボナパルトは「敵がその大胆さを増してそなたの陣地を攻撃するところまできたとの最初の知らせが司令官に届くや否や、司令官は決定的な優位を得るため自らそこに出向くだろう」(p396)とクレベールに述べている。これを見る限り、ボナパルトがアクルを出立する決断をしたのは、クレベールの失敗を予想したからではなく、単にオスマン軍との決戦が迫ったと判断したのが理由のように思える。これまたあくまで推測に過ぎないが。
 理由が何であれ、ボナパルトの決断は結果として大正解だった。彼の到着は戦況を劇的に変え、オスマン軍は全面壊走に移った。マレンゴではドゼーが戦場に到着してフランス軍を救ったが、タボール山でフランス軍を救ったのはボナパルト自身だ。この日の彼は、兵士たちの眼にきっと神様のような存在として映っていたことだろう。
 
 ただ、この時クレベールが「あなたは世界と同じくらい偉大だ」と叫んだ、という話には史料の裏づけがない。というか、このフレーズはもともとはアブキール陸戦の後に発言されたものとして紹介されている。そう書いたのは絵描きのドゥノン。Voyage dans le Basse et la Haute Égypte, Tome Second."http://books.google.com/books?id=Ui0PAAAAYAAJ"にアブキール会戦後のシーンとして「彼[ボナパルト]を抱擁し、熱狂しながらクレベールは言った。将軍、あなたは世界と同じくらい偉大だ。そして世界はあなたには小さすぎる」(p336)という話が載っている。
 最近出版された本でもこの台詞はアブキール後のものだと書いているものはある(La campagne d'Egypte"http://books.google.com/books?id=-C80SpmHLNgC"など)。だが、例えばSchurの本ではこれがタボール山後の台詞になっているのも確かだ。そして、Schur以前にもそうした間違いをしている例は多数ある。古くは1837年出版のDictionnaire de la conversation et de la lecture. Tome XXXIV."http://books.google.com/books?id=DQ87AAAAcAAJ"に載っているクレベールの項目(p135)。あるいは1906年出版のThe Empress Josephine"http://books.google.com/books?id=jAY6AAAAMAAJ"(p365)など。Ramsay Weston Phippsも"The Armies of the First French Republic, Volume V"のp401でそう書いている。
 誰がどんなきっかけで「アブキール後」を「タボール山後」と間違えたのか、それはよく分からない。ただ、両方の説が並存しながら最近まで生き残っているというのは珍しい事例かもしれん。
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