タボール山

 承前。タボール山の戦いについて。
 
 Nathan Schurの"Napoleon in the Holy Land"によると、オスマン帝国軍はタボール山戦の前に南方へ移動し、ナザレの北東から南東へと位置を変えた(p108)。南方からやってきたナーブルス人などの部隊と合流するための動きで、それに気づいたクレベールはタボール山の北側を迂回してオスマン帝国軍の背後(軍とヨルダン川の間)に進出し、そこで夜襲をかけようと自ら決断した。
 Schurはこのクレベールの決断に関するソースを示していない。可能性があるのはナポレオンがセント=ヘレナで話した内容をまとめたGuerre d'Orient, II."http://books.google.com/books?id=h7sNAAAAIAAJ"。「彼[クレベール]は司令官に対し、敵をダマスカスから切り離すため敵とヨルダン川の間に進出し、トルコ軍の宿営地を午前2時に奇襲する計算で行軍すると伝えてきた。レイニエ将軍がエル=アリシュで獲得したのと同じ成功を彼は期待していた」(p84)というのがその内容だ。
 この件に関してはセント=ヘレナのナポレオンと古い時期の記録がほとんど変化していない。ボナパルトが1799年5月10日付で総裁政府宛に記した報告の中で、彼は「[芽月]22日[4月11日]、敵はクレベール将軍の右翼にあふれ出し、ナーブルス人と合流するためエスドレロンの平野へ進んだ。クレベール将軍はヨルダン川と敵の間に向かい、タボール山を迂回して敵を夜襲するため26日から27日にかけての夜の間ずっと行軍した」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième."http://books.google.com/books?id=iFQUAAAAQAAJ" p420)と述べている。
 セント=ヘレナのナポレオンはこのクレベールの判断を厳しく批判している。クレベールはオスマン帝国軍とダマスカスとの連絡線を遮断するべく移動したが、オスマン軍は南方に移った時点で連絡線をナーブルス方面に変更していたため遮断効果は期待できない。レイニエ将軍はエル=アリシュでの夜襲前に2日間かけて地形を調査していたが、クレベールにはそうする時間がなかったうえにオスマン軍の陣地がどこにあるのか正確な場所も把握していなかった。「モスレムの宿営地の場所を十分に偵察するには少なくとも24時間かける必要があったが、これほど圧倒的に優勢な軍勢の正面でそうすることは不可能だ」(Guerre d'Orient, II. p85)。
 だがクレベールはこの奇襲を実行した。そしてタボール山の北側を回り込むルートを行軍したが、想定よりも多大な時間を要した。午前2時には到底敵陣に到着することはできず、結局夜が明けたところで圧倒的多数のオスマン帝国軍に発見されてしまった。以上がセント=ヘレナにおけるナポレオンの説明であり、会戦の後にボナパルトが総裁政府に送った報告の内容でもある。ベルティエの本Relation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrie"http://www.archive.org/details/relationdescampa00bertuoft"では、それに加えて「案内人に道を間違えられた」(p93)という理由も掲げられている。
 クレベールの行軍路をこちらの地図"http://en.wikipedia.org/wiki/File:NazarethSouth1799.jpg"で解説するなら、左上のナザレから右へと進み、右上にあるタボール山の北側から東側を回りこんだうえで左下にある戦場まで歩いたことになる。一目見てわかる通り、異常な行軍ルートだ。どうせ夜の闇を利用するならナザレからまっすぐ南下してオスマン帝国軍の陣地へすぐに突入した方がよほど良かったのではないか。何のためにわざわざ理解不能なほどの遠回りをしたのか。直線ルートなら10キロ未満のところを、25キロ近い距離を歩いてまで。どうもこの奇襲作戦は何もかもが出鱈目に見える。
 
 この会戦に関するクレベール自身の言い訳などは見つからない。Schurも特段そうしたものは紹介していない。そもそもなぜ奇襲、夜襲を決断したのかについて彼自身がどのように説明していたのかもよく分からない。クレベールからの報告をほんの僅かながら引用しているのは、私が探した中ではRelation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrieくらいしかなかった。
 
「クレベール将軍の報告によれば、この[エスドレロンの平野に進出したオスマン]軍の数はおおよそ1万5000人から1万8000人に及んだ。地域の住民に関する大げさな数を付け加えればその数は4万人から5万人となる。クレベールは同時に敵を攻撃するため出発するとも告げた」
Relation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrie, p90-91
 
 さらにp92には「クレベール将軍は25日に出発してフーリとティベリアにいる敵の陣地を迂回し、敵を奇襲してその宿営地を夜襲すると言っていた」との記述もある。奇襲に踏み切る前にクレベールがボナパルトに連絡してきたことは事実のようだが、やはりその狙いや勝算についてはよく分からないままだ。
 ただ、彼の決断を後押しした人物がいたことは想像できる。それは他ならぬボナパルトだ。司令官は13日に出したクレベールへの命令の中で、クレベールがオスマン軍の背後に回り込むことをけしかけるような発言をしている。
 
「もし敵とヨルダン川の間に入り込む手段が見つかるような様々な動きが生じたなら、彼らが我々[のいる場所、つまりアクル]に向かって行軍するという考えに縛られる必要はない。我々は見張りを置いているし、そこから素早く警報を受け、敵と対峙すべく行軍するだろう。ただし、そなたは敵を厳しく追撃する必要がある。もっとも彼らはそれほど本気になってはいないと私は見ている。もしこうした事態が起きたなら、彼らは途上でたやすく散り散りになるだろう」
Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p395
 
 さらに14日付の命令では最後に「もし敵がそなたの宿営地近くに敢えて陣を敷くなら、エル=アリシュと同じ成功を収めるであろう夜襲をそなたが敵に仕掛けることを、司令官は疑っていない」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p396-397)とも述べている。実際にエル=アリシュで成功したのはクレベールではなくレイニエであることは既に指摘済みだが、この命令がクレベールのレイニエに対するライバル心を煽ったのかもしれない。敵の背後に回って夜襲するというクレベールの行動は、こうしたボナパルトの命令に触発された可能性がある。
 ヒントを与えたのがボナパルトだとしても、その実行段階に責任を持っていたのは現場指揮官のクレベールだ。そして、その実行がかなりお粗末だったのは確か。案内人のミスか、それとも彼の手元にある地図が使い物にならないほど酷かったのか、理由は分からないがクレベールの責任自体が軽減される訳ではないだろう。そもそもアクルの司令官が何を言ってきたところで、現場の判断で無理だと思ったなら作戦を実行しなければいいだけ。実行に踏み切った以上、クレベールの判断ミスは否めない。
 一方、ナポレオンが後にセント=ヘレナで、まるで他人事のようにクレベールの判断を批判しているのも、無責任の謗りは免れない。ヨルダン川とオスマン軍の間に入り込んでダマスカスとの連絡線を遮断することも、エル=アリシュのように夜襲を試みることも、そもそもはボナパルトが言い出したこと。もちろん結果的にその判断は間違っていた訳だが、それなら単に判断ミスを黙っていればよかった。事実、総裁政府への報告や共和国暦8年に書かれたベルティエの本ではクレベールの行動自体を批判してはいない。クレベールが死んだ後になって彼を批判するのは、いささか卑怯ではある。
 
 まだまだ続く。
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