枠の外には

 ナポレオン漫画最新号はタボール山の戦い"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Mount_Tabor"、なのだが主役(正確には道化役)であるクレベールが全く見当たらない。一体どうしたんだ、またもやマジック発動かと思っていたら巻末コメントで作者から一言。「今回ジュノーが戦っている隣、フレーム外に実はクレベールがいます」。フレームの外っすか。いや全く想定外っす。おみそれしやした。
 深読みするなら、クレベールが全く格好良くない、というかはっきり言って物凄く無能に見えてしまうこの戦いから彼を外すことで、読者に抱かせている「クレベール=有能=ボナパルトが心密かに恐れている相手」という印象を壊さないようにしたのではないだろうか。ジュノーなら別に格好悪くても無能に見えても問題なしと判断し(可哀想なジュノー)、彼を代役に据えた。エル=アリシュでレイニエの功績をクレベールが奪ってしまった件も含め、作者はそのように読者を誘導しようとしているように見えてならない。
 なぜクレベールの有能さを強調しようとするのか。後々に何らかの演出をするための伏線なのではないかと勝手に想像してみる。クレベールはボナパルトから東方軍の指揮を引き継ぎ、最後は暗殺された。有能だが自分に批判的な人物をエジプトに置き去りにし、最後は殺されるのを放っておいたように描くことで、ボナパルトの自分勝手さを描くつもりなのかもしれない。要するにボナパルトにとってはどれほど有能な人物であっても所詮は「屁とも思わない」百万人の一人に過ぎない訳だ。もともとこの作品のボナパルトは英雄というより野心家として描写されることが多いので、こういう演出があっても不思議ではない、と思う。
 
 さて史実との比較。まずはフェリポーが任官試験で41番、ブオナパルテが42番だった件について。有名すぎる話なので特に書いておくべきこともないのだが、一応参考資料としてChuquetのLa jeunesse de Napoléon, Brienne"http://www.archive.org/details/lajeunessedenapo01chuquoft"をあげておく。p417-421まで全58人の名前が掲載されている。ブオナパルテとフェリポーが載っているのはp420だ。
 できれば描いてほしいと前に記したタンプル監獄からのスミス脱出が載ったのはありがたいが、描写は割とあっさり目。まあ実際に脱走の経緯はこんな感じだったらしい(ブチュウを除く)。事前の下準備をきっちり描けばスパイ漫画っぽくて面白いとは思うものの、そこまでやると本筋から離れすぎるのも事実だ。こういうときに番外編があればなあ。とりあえず脱走に関する詳細な経緯はThe life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I."http://books.google.com/books?id=WozFAAAAMAAJ"の第8章(p193-)をご参照のこと。
 ランヌが部下に向かって発破をかける部分はフィクションだろう。むしろアクル攻囲におけるランヌと部下との関係でよく紹介されるのは、5月の強襲時に負傷したランヌの足首を掴んで彼を窮地から(文字通り)引っ張り出した擲弾兵大尉の話だ。Margaret Scott ChrisawnのThe emperor's friend"http://books.google.com/books?id=k0NDkb1RNOIC"によれば「勇敢な擲弾兵大尉は後に、なお恩を感じている裕福な帝国元帥から贈られた金でガスコーニュに宿屋を購入した」(p55)そうである。
 問題はこれを裏付ける史料が見つからないこと。同書p61の脚注によれば、大尉がランヌを助けた話はベルティエの書いたRelations de l'expédition de Syrie"http://books.google.com/books?id=w2ugQAAACAAJ"のp47-48に載っているらしいが、この本はgoogle bookでも閲覧不能。また、大尉がランヌから金をもらった話はベルティエのRelation des campagnesなる本のp93にあるらしいのだが、Chrisawnがどの本のことを示しているのか実はよく分からない。Relation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrie"http://www.archive.org/details/relationdescampa00bertuoft"という本があるのは確かなのだが、同書p93にはこの大尉に関連する話は見当たらない。
 
 そして話はタボール山の戦いに移る。この戦いに関しては歴史書を見てもボナパルト以外の当事者の証言がなかなか出てこない。特に重要な参加者であるクレベールの言い分が、探しても容易に見つからない。結果としてボナパルトの発言に頼った史実の再現が行われがちである。ローマのガリア征服を描いた歴史書がカエサルの視点(ガリア戦記)にほぼ全面的に頼っているのと同じような印象がある。
 代表的なのがNathan Schurの"Napoleon in the Holy Land"だ。ネット上では見ることができない一次史料集であるLa Jonquièreまで使って書かれた本だけに、シリア遠征に関しては調査のとっかかりとして使うことが多いのだが、どうもこのタボール山の戦いに関してはひたすらナポレオンの証言をなぞっているだけのように思える。前後の経緯についてはナポレオン以外の史料も紹介しているのに、当日4月16日については本当にセント=ヘレナのナポレオンとほぼ同じことが繰り返されている。他の史料もほぼナポレオンと同じことを述べているのか、それとも他の史料自体がほとんど存在しないのか、そのあたりは不明だが。
 疑問は尽きないがまずは漫画との比較を。最初にジュノーがオスマン帝国軍と戦う場面はタボール山の戦いではなく、おそらくナザレの戦闘。先月号の戦報にも書かれていたが、ジュノー率いる500人の小規模な部隊が3000人のオスマン帝国軍の攻撃を受け、これを撃退した。ジュノーの報告書("Napoleon in the Holy Land" p207)及びボナパルトが5月10日に記した総裁政府宛報告書(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième"http://books.google.com/books?id=iFQUAAAAQAAJ" p420)にはこの戦闘が4月8日に行われたと書かれている。
 総裁政府への報告書には「[敵の]前衛部隊は[芽月]19日[4月8日]、終日ジュノー将軍の部隊と戦いました。彼は第2及び第19半旅団の兵500人と伴に彼らを壊走させ、軍旗5本を奪い戦場を敵の死体で覆いました。称賛すべき戦闘で、フランス兵の冷静さにとって名誉でした」とだけ書かれている。ジュノーの報告書を読めばもっと詳細が分かるのだろうが、それを読みたければLa Jonquièreに当たるしかない。
 ナザレの戦闘後、ボナパルトはクレベールに対してナザレへ向かうよう4月9日付で命令を出している(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p389-390)。その後、カナの戦闘が行われ、ジュノーの部隊を吸収したクレベールがオスマン帝国軍と戦闘している。これについてもボナパルトの報告は極めて短い。一方"Napoleon in the Holy Land"のp105-106にはこの戦闘についてのクレベール自身の報告が載っている。それによるとオスマン帝国軍の戦力は騎兵4000騎、歩兵500人。戦闘は決定的なものではなく、フランス軍は戦死6人、負傷47人の被害を受けたという。
 ちなみにクレベールの報告書と、共和国暦8年(1799-1800年)に出版されたベルティエの本Relation des campagnes du Général Bonaparte en Egypte et en Syrieのp90によれば、カナの戦いが行われたのは4月11日だ。ただ、ボナパルトの総裁政府への報告書では、日付がなぜか芽月20日(4月9日)になっている。
 この間、ナザレに拠点を置くクレベールとアクルにとどまったボナパルトはかなり密接に連絡を取り合っていたようだ。ボナパルトからクレベール宛に、少なくとも13日には2通の(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p393, p394)、14日には1通の(p396)命令が送られている。アクルとナザレの距離は30キロメートル強。強行軍なら1日以内の距離であり、伝令ならもっと短時間で行き来できただろう。高い頻度で連絡を取り合うことにより、ボナパルトはクレベールの動向をかなり注意深く見ていたと思われる。
 
 長くなったので以下次回。
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