1793年の共和国軍によるトゥーロン攻撃のクライマックスとなるのが、12月16日に行われた夜襲だ。この時、攻撃対象になったのがエギエット岬西方の丘に連合軍が築いた防御拠点である。若きブオナパルテが自ら予備縦隊を率いて襲撃を敢行し、負傷しながらも奪取したことで知られている。彼が欲しかったのはエギエット岬の要塞であり、そこを押さえればトゥーロン湾の連合軍艦隊を砲撃できるようになり彼らを退却に追い込めると判断していた。そして事実、エギエット陥落の直後に連合軍はトゥーロンを放棄した。
今回、問題にするのはこの防御拠点の名称。まずは手っ取り早くwikipediaを調べてみよう。日本語サイトでは「防衛司令官の名前をとってマルグレーヴ砦と名付けた。それは3つの小さな拠点で支えられた堅固なものであり、イギリス人から『小ジブラルタル』と呼ばれた」と書いてある。「マルグレーヴ砦」と「小ジブラルタル」という2つの名称が登場している。
英語サイトになるとFort Mulgrave(マルグレーヴ砦)に、付属する3つの小さな砦を含んだ全体を「フランス人がLittle Gibraltarと名づけた」と書かれている。2つの名称があるのは日本語サイトと同じだが、小ジブラルタルの名付け親はイギリス人ではなくフランス人になっている。英国人が記した本に載っている地図"
http://www.maproom.org/00/13/present.php?m=0008"では小ジブラルタルの方を採用している。
さらにフランス語wikipediaを見るとFort MulgraveとPetit Gibraltarの名が出てくるのは同じだが、小ジブラルタルと名づけたのは英国人Britanniquesになっている。
以上を元に調べるべき問題点を挙げてみよう。まず(1)小ジブラルタルと名づけたのは誰か。英国側かフランス側のどちらが最初にこの名で呼んだのかが問題だ。次に(2)では当時の両軍はこの拠点を具体的にどんな名前で呼んでいたのか。これはトゥーロン攻撃当時の報告書などを調べる必要がある。最後に(3)いつから「マルグレーヴ砦」と「小ジブラルタル」という名前が広まったのか。さっそく調査してみる。
最初の小ジブラルタルだが、google bookで調べてみるとこの名前が出てくる時期は結構遅い。トゥーロン攻撃が行われたのは1793年だが、google bookで遡れる最も古い記述は1801年出版のHistoire philosophique de la révolution de France, Tome Cinquième."
http://books.google.com/books?id=q8FCAAAAYAAJ"。そこには「この最も重要な拠点を英国軍はグランド・キャンプと呼び、フランス軍は小ジブラルタルと呼んだ」(p178)とかかれており、これを読む限り小ジブラルタルと名づけたのはフランス軍であるかのように思える。
ところが1806年出版のNouveau dictionnaire historique des sièges et batailles mémorables, Tome VI."
http://books.google.com/books?id=u2EwAAAAYAAJ"には、それとは逆に「英国が小ジブラルタルと名づけた」(p167)という記述が出てくるのだ。セント=ヘレナのナポレオンも「連合軍は、彼らが呼んだように小ジブラルタルをつくりあげた」(Mémoires pour servir à l'histoire de France sous le règne de Napoléon, Tome VI."
http://books.google.com/books?id=GLsNAAAAIAAJ" p14)と名付け親が英国側であると主張している。
しかしながら、では英語のLittle Gibraltarの方が古い事例が見つかるのかというと、そうでもない。少なくともgoogle bookで遡っても最も古いのは1817年出版のHistory of the wars of the French revolution, Vol. I."
http://books.google.com/books?id=9H3SAAAAMAAJ"に過ぎず、おまけにそこには「英国軍はグランド・キャンプと、フランス軍は小ジブラルタルと呼んだ」などと書かれている。要するに1問目の答えは「よく分からない」だ。
続いて1793年当時の呼び方だが、これは比較的簡単。まず英国側の呼び名だが、1793年11月10日付ロンドン・ガゼットに「マルグレーヴ砦」で10月9日に書かれた報告書が掲載されている(A collection of state papers relative to the war against France, London Gazette, p99)。12月17日のマルグレーヴ砦における戦闘での被害をまとめた報告(p121)もあるし、ダンダス中将が記したマルグレーヴ砦の戦闘報告(p125-129)も存在する。一方、Little Gibraltarの文字は全く存在しない。英国側の正式呼称が「マルグレーヴ砦」であったことはほぼ間違いないだろう。
ではフランス側はどうだったのか。まずマルグレーヴのフランス語読みである「ミュルグラーヴ」でなかったことは間違いない。小ジブラルタルでもなかった。トゥーロン攻撃時の正式呼称は、あまり面白みのない「英国堡塁」la redoute anglaiseだった。
派遣議員が1793年12月18日付で公安委員会に宛てて記した報告書には「攻撃は主にエギエット砦とバラギエ砦を見下ろす英国堡塁に振り向けられました」(Biographie des premières années de Napoléon Bonaparte, Tome Second."
http://books.google.com/books?id=MttEAAAAYAAJ" p238)と書かれている。また19日に陸軍大臣宛に書かれたデュゴミエの報告にも英国堡塁の文字が見える(p242)。
2問目の結論は出た。英国側はこの拠点を「マルグレーヴ砦」と、フランス側は「英国堡塁」と呼んでいたのだ。小ジブラルタルはあくまで俗称だったか、あるいは実際にはもっと後になって言われるようになった呼称なのかもしれない。
最後の問いはほぼ答えが出ている。マルグレーヴ砦という呼び名は最初から英国軍が使っていた。小ジブラルタルは調べた限りで初出が1801年といささか遅く、広く知られるようになった時期も遅かったようだ。では、フランス側が「ミュルグラーヴ砦」という言葉を最初に使ったのはいつだろうか。
google bookで調べた限り、最も古かったのは1802年出版のNouvelle géographie universelle, Tome III."
http://books.google.com/books?id=_4CQ2OjipLoC"。同書には「英国堡塁(ミュルグラーヴ砦)」(p188)という記述がある。フランス側が正式報告書で使っていた「英国堡塁」の英語名称を紹介したものだろう。フランス側でミュルグラーヴ砦の名が知られるようになったのも、案外遅かったようだ。
重要なのは、小ジブラルタルにせよミュルグラーヴにせよ、google bookで表に出てくるようになったのがボナパルトが政権を握った後であること。いずれもそれ以前から存在した呼称なのかもしれないが、知っていたのは実際にトゥーロン攻撃に参加した人など一部に限られていたのだろう。独裁者が誕生した後になってその過去が調べられ、広く一般に喧伝されるようになった様子が窺える。
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