承前。3月28日に行われたアクル強襲について。今回は残された謎の解決に取り組む。
フランス軍が3月の攻撃において塔の足元にたどり着き、そこに梯子をかけたところまではおそらく史実である。ベルティエ本の他にミオー、ペルポール、スミスらの証言が一致している。だが、奇妙なのは強襲からあまり時間が経過していない4月及び5月に書かれたボナパルトの手紙。そこには強襲が実施されフランス軍が塔の足元まで到着したという話が全く書かれていない。
なぜボナパルトは強襲から間もない時期に書いた手紙で、この襲撃のことに触れなかったのだろうか。まるで襲撃などなく、淡々と攻囲戦を進めていたかのような話を書いていた理由は何か。ヒントはフランソワ大尉の日記Journal du capitaine François"
http://www.amazon.fr/dp/2847340785"にある、かもしれない。Paul Strathernの"Napoleon in Egypt"に載っているフランソワの話によれば「ナポレオンとその幕僚は常に塹壕にいて、いつ突撃命令を出すか判断しようとしていた。塹壕は最初に突撃しようとする兵たちと、その背後に来た支援兵たちによってすぐに埋まり溢れそうになったが、士官がこれ以上兵たちをとどめておけないと伝えるまでナポレオンはなお躊躇していた」(p342)そうだ。
ナポレオンが他人の意見に押されるように突撃命令を出したことを窺わせる証言は他にもある。一つはセント=ヘレナでの証言をまとめたMémoires pour servir à l'histoire de France sous Napoléon, Tome II."
http://books.google.com/books?id=bGcUAAAAQAAJ"で、そこには「地雷は3月28日に爆破されたが、それは十分に成功しなかった。十分に掘り進められなかったため、傾斜外壁の半分しか吹き飛ばせず、なお8ピエも残った。だが工兵は完全に破壊できたと言い張った」(p306-307)と書かれている。もう一つはベルティエの本で、「兵たちは大声で攻撃を求めた。彼らの短気に屈し、攻撃が決定された」(Relation des campagnes du Général Bonaparte en Égypte et en Syrie"
http://www.archive.org/details/relationdescampa00bertuoft" p60)とある。
以下は私の想像だが、ボナパルトはこの襲撃を本気で進めるつもりがそもそもなかったのではなかろうか。兵に突き上げられてやむなく攻撃命令を出したものの、成功確率は決して高くないと考えていたし、実際に投入した兵力も1000人未満で、上手くいかないことが分かった段階で早々に攻撃を切り上げた。もしかしたら本格的襲撃ですらなく、単なる強行偵察程度に考えていたのかもしれない。総裁政府への報告で地雷の効果を調べに出かけたマイイが死んだと述べているのはそれが理由。マルモンへの手紙で「攻撃は4月20日」と記しているのも、3月の戦闘をまともな攻撃と見なしていなかったから、ではないだろうか。
5月に行われた襲撃ではランヌやボン、ランボーといった将軍クラスが強襲の際に負傷したり戦死している。だが、3月の襲撃で戦死したのは参謀副官やその補佐であり、将官クラスの名前は存在しない。これは襲撃に投入された部隊の規模の違いによるものだろう。3月に襲撃を率いたのはマイイが40人、後続のロージエも800人(Guerre d'Orient, II."
http://books.google.com/books?id=h7sNAAAAIAAJ" p74)だ。それに対し、5月にはランヌやボン、クレベールらが師団(数千人)を率いて強襲を行っている。ボナパルトがどちらにどの程度の力を入れていたかが分かる。
だが、後に彼は考えを改めた。3月28日の小規模な戦闘を無視するより、それを盛り上げて描き出した方がプロパガンダになる、と判断したのだろう。勇敢な(少数の)フランス兵が数多の障害を乗り越えて城壁に迫った。オスマン軍はその勢いに恐れて逃げ出しそうになった。だが最後に梯子の長さ不足という意外な要因のせいで強襲は頓挫。紙一重でアクルは陥落しなかった。ベルティエにはそのように話をまとめさせ、セント=ヘレナではさらに話を膨らませて一部の兵は実際に破口までたどり着いたことにした。かくして単なる小規模な部隊による強行偵察が、アクル攻囲戦の前半のクライマックスになってしまった。
ボナパルトのプロパガンダははっきり成果を挙げた。何しろ歴史家の間でも3月28日の襲撃は重要なものと見なされているのだから。Nathan Schurは"Napoleon in the Holy Land"で「[3月の襲撃は]攻囲戦の中でも2つあった決定的瞬間の1つ」(p88)としているし、J. Christopher Heroldの"Bonaparte in Egypt"にも「おそらくこれはアクル攻囲戦全体の中で1つの決定的瞬間だった」(p290)と書かれている。しかし、参加兵力を見た場合、そう安易に言い切っていいのかどうか、個人的には疑問を感じる。
何より、ナポレオンやミオーなどが主張している「守備隊が浮き足立ち逃げ出しかけた」という話がどこまで史実なのか分からないところが問題だ。複数のフランス側証言が一致しているとはいえ、守備隊側を見ると少なくともスミスによれば「トルコ兵はこの時には襲撃者を梯子から壕へと叩き落すことまでやってのけた」訳であり、浮き足立ったという描写はどこにも見当たらない。守備隊側の史料をもっと調べ、彼らが逃げ出そうとしていたことがはっきり裏づけられない限り、3月28日を「攻囲戦の決定的瞬間」と見なすのは難しいだろう。
以上で3月28日の件についてはほぼ終わりだが、最後に一つ。フランス側の記述によれば、守備隊側のうちこの日の戦闘で最も華々しい活躍をした人物は、実はジャザール・パシャである。ミオーによれば、彼こそが「決定的瞬間」の行方を決めた。
「ヤッファ襲撃の素早さと血塗れの勝利が呼び起こした恐怖がサン=ジャン=ダクルの守備隊にあまりに強い印象を与えていたため、[芽月]8日[3月28日]の積極的な攻撃によって彼らは数分間、危険に晒されている城壁を捨てようとした。だがこの運命が決まろうとする瞬間、ジャザールはトルコ兵を導き、彼らを破口に引き戻すだけの断固とした態度を示した。彼は2挺のピストルを我々に向かって撃ちながら『何を恐れている? 見ろ、やつらは逃げているぞ』と叫んだ。トルコ兵は熱心に持ち場へ戻り、この失敗に終わった最初の襲撃は彼らに自信を取り戻させ恐怖を払拭させた」
Mémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Égypte et en Syrie"
http://books.google.com/books?id=gO4OAAAAYAAJ" p164-165
ベルノイエによればジャザールの台詞は「臆病者めら! 俺は一人でもここを守ってやる!」になるそうだ(Schur, p206)。もっとも彼らにトルコ語が理解できたとは思えないし、この話もどこまで史実かは分からない。少なくとも守備隊側の一員であったスミスは、こんな話は紹介していない。80近い爺さんがチョウ・ユンファばりに二挺拳銃をぶっ放す場面というのは、なかなか絵になるシーンであることは確かだけどな。
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