最初の強襲・1

 アクルに対するフランスの「3月攻撃」の実態はどんなものだったのか。まずはナポレオンの発言から見てみよう。地雷を爆発させた後でどのように戦闘が行われたのか、セント=ヘレナの皇帝は以下のように語っている。
 
「幕僚大尉のマイイは5人の作業員、10人の工兵及び25人の擲弾兵と伴に塔を占拠するよう命じられた。(中略)マイイは地雷用の坑道から飛び出し、地雷工兵が十分に掘り進めなかったため崩されていなかった10ピエもの傾斜外壁にも止められることなく壕へ突進した。塔の足元にたどり着いた彼は3本の梯子を立てかけ、40人の兵と伴に塔の1階へ登った。(中略)マイイは台の上に登り、そこにあったオスマン帝国の旗を引きちぎった。10人の勇敢な兵が彼に続き、その他は戦死するか負傷していた。(中略)この[後続部隊が後方へと下がった]移動は逃亡と見なされた。塔の1階にいたマイイの兵たちは壕へと降りた。かくして台の上にはマイイと工兵1人、擲弾兵2人のみが残された。マイイは救援を求めるべく1階へ降り、そこで銃撃され肺を貫かれた。彼は血の海に沈み、擲弾兵が彼を助けるために降りた」
Guerre d'Orient, II."http://books.google.com/books?id=h7sNAAAAIAAJ" p74-76
 
 襲撃に際して先頭部隊を率いたマイイの獅子奮迅の活躍ぶりが描かれている。彼の部隊はいくつもの障害を乗り越えて塔の中まで到達したのだが、後続部隊が傾斜外壁(contrescarpe"http://www.britannica.com/bps/image/214241/4034/Profile-of-the-European-fortress-wall-from-the-16th-century")に行く手を阻まれて身動きが取れなくなり、オスマン軍の一方的な射撃に晒されて退却した結果、マイイは孤立し戦死した。それがナポレオンの説明である。
 とはいえこれはセント=ヘレナでの発言。いつものことだが、セント=ヘレナのナポレオンを信用するのはあまりよくない。もっと遡って彼の発言がどう推移したかをチェックしておくべきだろう。ベルティエが記し、共和国暦8年(1799-1800年)に出版されたRelation des campagnes du Général Bonaparte en Égypte et en Syrie"http://www.archive.org/details/relationdescampa00bertuoft"は、当然ながらボナパルトの意向を反映した書物になっている。そこには以下のように書かれている。
 
「擲弾兵が突進するや否や、彼らは立派な傾斜外壁に守られた[深さ]15ピエの壕に足止めされた。この障害物も彼らの熱意を鈍らせなかった。梯子が置かれ、擲弾兵の先頭は既にそこを降りた。破口にはなお8から10ピエあった。いくつかの梯子がそこに立てかけられた。参謀副官補佐のマイイが最初に登り、銃弾に貫かれて戦死した。
 (中略)恐怖が守備隊を捉えた。彼らは既に港へと逃げ出していた。だがすぐに彼らは再編され、破口へ戻ってきた。そこは瓦礫より8から10ピエ高く、フランスの擲弾兵による登攀の努力は無駄に終わった。
 敵には塔の頂上へ戻る時間があり、そこから彼らは包囲軍に石、擲弾、及び火のついた物を雨のように降らせた。破口の足元にたどり着いた擲弾兵の隊列は、それを越えられないことに体を震わせ、塹壕へ戻ることを強いられた。この攻撃で6人が戦死し、20人が負傷した」
60-61
 
 読めば分かる通り、マイイも、彼に従った擲弾兵たちも破口に到達できなかった。つまり、梯子を登りきれなかった。セント=ヘレナでは破口から塔の中へ入り、オスマンの旗を引きずり下ろす活躍を見せていたマイイが、こちらではあっさりと戦死している。要するにナポレオンはまたもやセント=ヘレナで話を必要以上に盛り上げていたのである。
 さらに遡り、よりリアルタイム性の高い史料を見ると、話はもっと地味になる。5月10日付で書かれた総裁政府への報告では「我々は町で最も突出している塔の部分に破口を開けました。地雷の敷設は失敗し、傾斜外壁を崩すことはできませんでした。地雷の効果を調べようと出かけた幕僚補佐の市民マイイは戦死しました」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième."http://books.google.com/books?id=ArnSAAAAMAAJ" p420)としか書かれていない。梯子をかけて破口を登ろうとした話すら紹介されていないのだ。
 4月14日付でボナパルトがマルモンに宛てて書いた手紙になるとさらに酷い。「塔に向かって掘っている塹壕の先端で地雷工兵が傾斜外壁を崩すまで、私は合図を出すのを待っている。傾斜外壁まではまだ8トワーズの距離が残っている。(中略)[町へ突入するのは]花月1日[4月20日]になるだろう」(p398)と書いてあり、まるで3月の地雷爆破&強襲はなかったかのような書き方になっている。マイイの死についても「敵は極めて正確に砲撃している。現時点までに60人が戦死し、30人が負傷した。補佐官マイイ、参謀副官のレカルとロージエは前者に含まれている」(p398)としか書かれておらず、あたかも守備隊の砲撃で死んだかのように読める。
 
 一体どれが史実なのだろう。ボナパルト以外の証言を見て判断するしかない。まず重要な証言者としてシドニー・スミスがいる。フランスの敵側に当たる彼の証言は極めて重要だ。The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I."http://books.google.com/books?id=WozFAAAAMAAJ"に載っている4月4日付の手紙には以下のようにある。
 
「敵は庭にある送水路の壁に守られながら接近壕の一つを掘り進め、実際に町の壕までやって来て既に破口を穿たれていた塔の下に地雷を埋め、一度はそこに梯子をかけた。しかしながらその梯子は短すぎ、トルコ兵はこの時には襲撃者を梯子から壕へと叩き落すことまでやってのけた。壕には約40人の敵の死体が残っている。だがこの地雷による攻撃が続くなら、次の機会には梯子は必要なくなるだろう」
p274
 
 これを見る限り、少なくともフランス軍が塔に梯子をかけるところまで行ったのは史実と見ていいだろう。これは他のフランス軍参加者の証言からも裏付けられる。例えばミオーは「擲弾兵たちは熱狂と伴に飛び出したが、すぐ深い壕のためしばらく足止めされた。梯子を使ってそこを越えた彼らは、敵の恐ろしい銃撃にもかかわらず塔までたどり着いたが、そこから突入することはできなかった。勇敢な戦士たちは困難な後退を強いられた」(Mémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Égypte et en Syrie"http://books.google.com/books?id=gO4OAAAAYAAJ" p163-164)と書いている。
 リシャルドも「参謀副官補佐のマイイ率いる擲弾兵たちは塔へ向けて飛び出した。広く深い壕が彼らの前にあった。彼らは粗朶を投げ込み、そこへ飛び降り、塔に梯子を立てかけた。しかしそれは必要な高さの半分にも届かなかった。しかしそれも問題ではなく、他の助けを借りれば狭間に届いてそこへ飛び込むことは可能だった。既に梯子を上っていたマイイは、彼に続く擲弾兵の肩に足を乗せて登ろうとしていたが、何発かの銃弾に貫かれた」(Relation de la campagne de Syrie"http://books.google.com/books?id=Cv-NVCOYlWMC" p25)と記している。
 ペルポールも「第69[半旅団]の擲弾兵たちは塔へ向かったが、驚いたことに彼らは壕に足止めされた(誰もこの障害物を考慮していなかった)。運んでいた梯子を使い、彼らはどうにか降りることができた。塔の足元にたどり着き、彼らは梯子をかけたが、それは短すぎた。全ては危険な射撃の下で起きた。(中略)勇敢な擲弾兵たちは戦友の半数を失った後で覆道へ後退した」(Souvenirs militaires et intimes du général Vte de Pelleport, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=B_NaAAAAQAAJ" p146)と証言している。
 塔の足元までフランス兵が到着したのはおそらく史実だろう。ただ、梯子を登って破口まで到達できた兵士がいたかどうかとなると怪しい。リシャルドの証言では届いた兵士がいたかのようにも読めるが、ミオーやペルポールはそこまで言っていないし、ベルティエも破口を越えられなかったと書いている。スミスの証言も、破口までフランス兵が来たとは述べていない。どうやら擲弾兵たちは梯子を登りきることはできなかったようだ。
 
 1回で終わらせるつもりだったのにまた長くなってしまった。以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック