承前。今月のナポレオン漫画は、後半に入ってマジックの度合いが強まっていく。
まず最初は「3月21日、砲撃開始」の場面。マルモンが「中央城塔に狙いを絞れ」と言っているが、この中央城塔なるものは先月号の大陸軍戦報に載っている地図を見る限り、アクルの北側を守る城壁の真ん中にある塔のことだろう。こちらの地図"
http://www.maproom.org/00/13/present.php?m=0022"でCastleと書かれている文字のすぐ右側あたりを指すと考えていい。見ての通り、アクルは半島のように陸地が海へ突出した部分につくられた町で、陸に面した部分では北側と東側に城壁がある。
漫画の展開ではこの「中央城塔」のすぐ傍の壁が崩れ、そこからランヌの部隊が最初の突入を図っていた。だが、史実と比べるとこれは怪しい。アクル攻撃の参加者たちが残した記録を見るとそれが分かる。一人はリシャルドだ。
「これらの[北側と東側の]2正面は、2つの[つまり北側と東側の]城壁の凸角部にある大きな塔によって側面を守られていた。さらにこれらの城壁に沿っていくつかの小塔があった。(中略)疑いなくこの大きな塔は堅牢な建造物であり、成功を確実にするためそこに破口を穿つには攻城砲が必要だった。(中略)この件については城壁を砲撃した方がより確実だったのは確かだ。だが塔は主要な拠点であり、要塞の突出部であり、こここそが攻撃にふさわしい場所だった。ここを支配すれば、町は落ちるだろう。かくして反対を押し切り、塔に破口を開けることが決定された」
Relation de la campagne de Syrie "
http://books.google.com/books?id=Cv-NVCOYlWMC" p23-24
フランス軍が砲撃によって破口をつくろうとした「塔」が、北側と東側の城壁の突出部にあったとはっきり書かれている。北側城壁の真ん中にある「中央城塔」は、どうみても突出部にはない。リシャルドが言及している「塔」は、地図で言えばFalse Attackと書かれた文字の下にあるMine(地雷)の左下付近に存在する。北側城壁と東側城壁がほぼ直角に交わっているところだ。
ジャック・ミオーも「[芽月]8日(3月28日)夜明け、破口用の砲兵隊が、城壁の角(l'angle du rempart)に位置する塔に向けて砲撃を始めた」(Mémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Égypte et en Syrie"
http://books.google.com/books?id=gO4OAAAAYAAJ" p163)と記している。やはり城壁の真ん中にある中央城塔ではなく、角の突出部にある塔を攻撃したことを明言している。
他ならぬナポレオン自身も、攻撃したのが城壁の角にある塔であることを窺わせる発言をしている。Guerre d'Orient, II."
http://books.google.co.jp/books?id=z6sWAAAAQAAJ"で彼は「これらの[城壁の]2正面は直角に交わっていた。その頂点には大きく古い塔があり、町と城壁全体を見下ろしていた」(p69)と説明したうえで、町への砲撃に際し「6プース迫撃砲4門で武装した第6砲兵隊は大きな塔を砲撃し、12ポンド砲4門、8ポンド砲4門、榴弾砲2門を持つ第7及び第8は大きな塔の東側(la face Est)に破口を開く」(p73)と述べている。東西に城壁がある中央城塔の「東側」に破口を開けるのは無理だろう。北東の角にある塔ならば、東側に破口を穿つこともできる。
これら当事者の発言だけでなく、歴史書にも同じことが書いてある。Paul Strathernの"Napoleon in Egypt"のp339にはアクル攻撃の地図が載っているが、北東の角にTowerと書かれており、そこに重要な塔があったことが分かる。ちなみに中央城塔の部分はDjezzar's Palaceとなっている。Nathan Schurの"Napoleon in the Holy Land"はもっと露骨で、p81の地図には北東角の塔の少し南側にbreach(破口)という文字がはっきりと記されている。
北東の角は要塞から見れば突出した部分だ。攻撃側にとっては東側及び北側の両方から攻撃できる場所でもあり、それだけ攻めやすい。北側城壁の真ん中にある中央城塔を攻めるよりも妥当だと、攻撃側は考えたのだろう(少なくともリシャルドはそう言っている)。ただ、分かりやすい攻撃目標だけに、防御側も対処しやすい。Schurなどはボナパルトがこの地点への攻撃にこだわりすぎたことが敗因の一つではないかと分析している(p128)。
だが、最大の問題はむしろその後だ。ランヌが城壁内に突入し、内側の壁を見るシーン。そして脱出途上で負傷するシーン。これらは全て3月の第一次攻撃時点の話ではなく、5月に行われた総攻撃の時に起きたことだ。「前倒し」といったのはこの部分である。まずランヌの攻撃参加。Guerre d'Orient, II.には5月7日に「司令官はすぐ武器を取り、ランヌ将軍に襲撃を行ってかの地を奪取せよと命じた」(p100)ことが書かれている一方、3月時点の攻撃にはランヌの名が登場しない。
次に連合軍が城壁内に第二の壁を用意していた件だが、これは前にも書いた通りジャザールの発案だった。スミスは5月9日付の手紙で「今回のパシャの案は、破口を守るのではなく、トルコ風の戦争のやり方に従い、いくらかの数の敵を入れてそれから彼らと交戦するものだった。かくして[フランス軍]縦隊は妨害されることなく破口に登り、城壁からパシャの庭園へと降りてきた。そこでほんの数分の間に、彼らのうち最も勇敢で最も前進していた者たちは頭を失った死体として横たわることになった。銃剣では、サーベルともう一方の手に持った短剣には敵わないことが証明された」(The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I. p289)と記している。
そしてランヌの負傷だが、これはミオーが書き記している。Mémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Égypte et en Syrieには5月7日夜の戦闘で「ランヌは頭部に危険な怪我を負い、ランボー将軍は戦死した」(p198)との記述があるのだ。ベルティエもやはり5月の戦闘に関する描写の中で「ランヌ将軍は酷い怪我をした」(Mémoires du maréchal Berthier, Campagne d'Égypte, Ier Partie."
http://books.google.com/books?id=FK0sAAAAYAAJ" p81)と述べている。
そもそもミオーの記述を見ても分かるように、ランヌが怪我をしたのは口ではない。実はここの部分も一種の「前倒し」になっており、Margaret Scott Chrisawnによれば、後のアブキールの陸戦において「ミュラがマスケット銃弾により顎に怪我をした」("The Emperor's Friend" p57)のだそうだ。前倒しに加え、怪我人も入れ替わるというマジックである。
それにしても5月の総攻撃時点におけるエピソードをこんなに先取りしてしまって、果たして今後どうするつもりなのだろう。タボール山の戦い後にアクルの戦闘シーンを描きたくても、大概の挿話を使い果たしてしまった以上、描くことがなくなる恐れはないのか。もしかしたら最初からクライマックスは「ボナパルトとフェリポーが城壁の上で一騎打ち」で決まっており、それ以外のエピソードは前倒しで処理してしまったのかもしれない。それならそれでこれからが楽しみだが。
次回は、前倒しではない史実の「3月攻撃」について。
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