6か7か

 ナポレオン漫画の登場人物は、史実より前倒しで死んだり退場したりするケースが多い。タリアンしかり、デュマ将軍しかり、カファレリ将軍しかり。ところが、今回は登場人物でなく、出来事が前倒しになってしまった。いや、これも前に事例があったな。アブキール海戦が1ヶ月ほど前倒しになったという派手なマジックが。しかし今回のマジックはそれとは違う。あれは単に前後が入れ替わっただけだが、今回は未来の先取りだ。取ってしまったものは戻らない。どうするつもりだろうか。
 
 結論を出す前に、順番に史実との比較をしておこう。まずは冒頭、ハイファ沖で攻城砲を運ぶフランス軍の輸送船団が英国艦隊にやられるシーンだ。この事件が起きたのは3月18日。Nathan Schurの"Napoleon in the Holy Land"(p77)、J. Christopher Heroldの"Bonaparte in Egypt"(p284)、さらにPaul Strathernの"Napoleon in Egypt"(p333)など、シリア遠征について書かれた本では大概この話が紹介されている。英国の襲撃を受けたフランス艦隊のうち3隻はどうにか脱出するが「重い攻城砲を運んでいた操船しにくい輸送船6隻は全て拿捕された」(Strathern)、というのがこれらの本の説明だ。
 ところがシドニー・スミスは少し違うことを書いている。The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I."http://books.google.com/books?id=WozFAAAAMAAJ"に収録されている3月23日付のセント=ヴィンセント伯宛報告書には以下のような文章があるのだ。
 
「カーメル山を回りこんだ時、ティグルはコルベット艦1隻と9隻の砲艦から成る敵艦隊を発見した。我々を見た彼らは針路を変えた。彼らを追って帆を張った船員たちの機敏さは大いに称賛に値する。我々の大砲はすぐ敵に届き、同封したリストに記した7隻を襲撃した。ブオナパルテの個人的財産を積んだコルベット艦と2隻の小型船は逃げた(中略)。そこで奪った船は町に停泊し、船員を乗せ、すぐに敵の陣地を攻撃し、その接近を妨げ、海岸沿いに搬送される補給物資を断ち切るため海岸に送られたボートの援護に使われた」
p267
 
 拿捕したのは7隻、と書いてある。歴史書に書かれているものより1隻多い。実際、同書p269を見ると確かに7隻の船名が書かれている。
 
ラ=ネグルス 大砲6門 乗員53人
ラ=フードル 大砲8門 乗員52人
ラ=ダンジュルーズ 大砲6門 乗員23人
ラ=マリー=ローズ 大砲4門 乗員22人
ラ=ダーム=ド=グラース 大砲4門 乗員35人
レ=ドゥー=フレール 大砲4門 乗員23人
ラ=トリド(朝方奪われたが、奪回した) 大砲2門 乗員30人
 
 問題なのはこの7隻目の「ラ=トリド」だ。実はこの船については、フランス艦隊の指揮官であったスタンドレ艦長の報告書にも触れられている。
 
「[風月28日午前]7時、我々は風下にあるもう1隻の船に気づいた。私はそれを追跡し、艦隊の残りについてくるよう合図した。9時には我々はかなり接近し、その船は旗を降ろした。結局それは英国がベキエで我々から奪ったトリドであることが分かった。私はそれに我々の船員を載せ、その航行を委ねた。艦長と副艦長、そして4人の乗組員には見張りをつけた」
Schur "Napoleon in the Holy Land" p77
 
 残念ながらスタンドレはこの後「トリド」がどのような運命をたどったかについて触れていない。スミスの証言を信じるのなら、この船は午後になって再び英国海軍の手に落ちた筈であり、それも含めると奪われた船は7隻になる筈だ。Schurらがどうして奪われた船を「6隻」とカウントしているのか、その理由はよく分からない。
 皮肉なことに、ハイファ沖で船が奪われたその時、ボナパルトはハイファ近くのカーメル山に陣を敷いていた。彼はアクル湾に英国海軍がいるのを見て、ガントーム提督に「市民将軍殿、もしスタンドレ艦長が指揮する艦隊がまだダミエッタを出帆していないのなら、彼に出帆しないよう命じてほしい」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième."http://books.google.com/books?id=ArnSAAAAMAAJ" p364)との手紙を記している。だが、この手紙の日付は風月28日。アクルに艦隊を近づけまいとする彼の判断は正しかったのだが、いかんせん命令を出すタイミングが遅すぎた。
 なお、ナポレオンがセント=ヘレナで口述したGuerre d'Orient, II."http://books.google.com/books?id=h7sNAAAAIAAJ"には、接近する輸送艦隊に危険を知らせるべく騎兵隊が送り出された、という話が載っている。あまり信頼には値しないだろうが、一応紹介しておこう。
 
「艦隊が遊弋している英国艦の前に現れるのを防ぎ、そして軍がハイファの港に入城したことを教えるため、騎兵偵察隊がタントゥーラ方面に向かった。タントゥーラの彼方1リューのところで艦隊と接触して話をし、食料を積んでヤッファから来た8隻の船は3月19日の夜明けに港に入った。だが攻城装備を積んだ16隻のフランス艦は躊躇し、しばし混乱を映し、舳先を変えて出帆した。英国艦はこれを追撃した。全てはすぐ見えなくなった」
p57
 
 続いて漫画ではアクルの大砲について250門という数字を紹介している。これまたSchurの"Napoleon in the Holy Land"(p84)、Heroldの"Bonaparte in Egypt"(p285)、Strathernの"Napoleon in Egypt"(p340)などで横並びで紹介されている数字だ。残念ながらどのような史料に基づいているか言及がないため確認は取れないが、これだけ横並びだと何らかの根拠はあると考えていいのだろう。
 フランス軍相手に地元住民が商売しているシーンがあるが、これまた一応は論拠があるようだ。Schurによるとナポレオンは地元の市場を利用して必要な物資を買い付けており、「士官と兵たちは軍の糧食の追加として個人的に買い物をすることができた」(Schur, p92)そうだ。
 住民たちの「仇を討ってくれ」という台詞も論拠はあるようだ。ペリュスは母親への手紙で「シリア人は皆ジャザールを憎んでいる。この70歳のパシャは残虐な怪物だ。(中略)彼は鼻と耳を削ぎ、大腿部を削ぎ、目をくり抜く。(中略)皆が彼の没落をはやる思いで待ち望んでいる」(Schur, p187-188)と書いている。ボナパルトも3月20日付の軍への布告で「サン=ジャン=ダクル周辺の村にはフランスと友好的でジャザールの敵であるドリューズの人々が住んでおり、彼らは軍に熱心に物資を供給し我々の側に立って武装している」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p368)と述べている。
 また、塹壕を見回っているシーンでクレベールが「これでは俺の腹下しか隠せん」と言っているが、この挿話はLa Jonquièreの本に載っているそうだ(Strathern, p341)。以前、ブーリエンヌの回想録に「俺の膝にも届かない」とクレベールが文句を言っていた話が載っていることを指摘した"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/49128245.html"が、どうやらブーリエンヌは実際よりも話を大げさに伝えているようだ。
 
 長くなったので以下次回。
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