1799年史料ロンドン・ガゼット その22

 ヴィンタートゥール近くの司令部、5月31日。
 閣下、
 今月21日、大公の軍の前衛部隊(ナウエンドルフ将軍指揮)が、敵の抵抗を受けずにディッセンホーフェンとシャフハウゼンの間でラインを渡り、トゥール河沿いのアンデルフィンゲンまで前進したと閣下にお知らせできることを光栄に存じます。――翌日、軍はその河を渡り、パラディース近くに宿営しました。
 22日、ホッツェ将軍の主力部隊もまたバルツァースとコンスタンス湖の間の様々な場所でラインを渡り、そして23日には司令部をザンクト=ガレンに定めました。グリゾン地方に対する作戦の際にはホッツェ将軍の部隊の右翼にあってフェルトキルヒから[コンスタンス]湖までのライン河を守っていたペトラッシュ中将は、既にネフェルバッハまで前哨線を押し進めていた大公の軍と合流するため、24日から25日にかけての夜間に、歩兵6個大隊及びキンスキー軽騎兵連隊と伴にザンクト=ガレンからフラウエンフェルトへ行軍しました。ホッツェ中将の部隊の残りは25日の午前中にシュヴァルツェンバッハまで前進し、そこでトゥール河の背後に宿営する一方、前衛部隊は河の2リーグ前面、エルグへ向かう道上に配置しました。この日(25日)のうちに敵はトゥールを渡った全ての部隊を攻撃しました。――彼らはナウエンドルフ中将の前哨線をネフェルバッハから追い返し、アンデルフィンゲンで再渡河することを余儀なくさせました。ペトラッシュ中将の部隊はフラウエンフェルト背後の丘にちょうど到着したところを攻撃されました。戦闘は終日続き、夕方に敵はペトラッシュ中将に退却を強いることに成功し、フラウエンフェルトとヴィルのほぼ中間地点に陣を敷きました。この戦闘の間に敵は、ペトラッシュ将軍と交戦している部隊の左側面を守る狙いで、1縦隊をプフィン橋まで押し出しました。ホッツェ将軍左翼の前衛部隊も攻撃されましたが、敵を撃退しエルグまで追い払いました。しかしながらペトラッシュ将軍の部隊が退却した結果、その部隊も後退を命じられました。――26日早朝、公爵ロイス中将麾下にある大公軍の1縦隊がプフィンに到着し、その日のうちにフラウエンフェルトの近くで宿営しました。夕方にはペトラッシュ中将の部隊がそこへ合流しました。26日から27日にかけての夜間に、ホッツェ将軍とロイス公の縦隊はヴィンタートゥール近くの敵陣を攻撃するため相互に連携して前進しました。その機動は極めて正確に実行され、27日の夜明け直後には規則正しくとても軍隊らしい攻撃が行われました。敵はその陣地から追い払われましたが、地形が極めて有利かつ森が交錯していたため、その退却は我慢できる程度の秩序をもって実行されました。彼らはトレス川の背後に配置し、夕方までそこにとどまりました。アンデルフィンゲンにあるトゥールを渡る橋は25日に破壊され、そして26日から27日にかけての夜間に生じた舟橋建設の不幸な遅れによって、大公の右翼(ナウエンドルフ中将麾下)がこの日の戦闘に参加するように到着するのが妨げられました。そうでなければ、この日の戦いは決定的だったでしょう。トレスの川岸はとても急峻で[防御側にとって]優れた場所を提供していました。しかしマセナはそこを守るためのどのようなさらなる取り組みも適切だとは考えませんでした。かくして彼は退却し、グラートの背後に布陣しました。ヴィンタートゥールの戦いだけでなく、おそらくナウエンドルフ将軍の縦隊が彼の左側面へ行軍していたことも、彼にその行動を促したのでしょう。両軍の前哨線は今やグラートによって隔てられ、そして敵は有利だと言われている塹壕宿営地をチューリヒのこちら側約1リーグに築いていました。しかし私は、彼らがすぐそこを放棄することを余儀なくされると疑っていません。彼らはラパースヴァイルから退却し、橋を破壊しました。ロヴェレア大佐はスイス部隊と伴にシュヴァイツ州のノートル=ダーム=ダインジドレンにいます。彼は何人かの住人と合流し、カヴァシーニ大佐麾下のオーストリア部隊に支援されています。ベレガルデ将軍の部隊の一部がサン=ゴッタルドを越えたとの公式の記録が本日もたらされました。
 敬具
 ロバート・クロファード
A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8"http://books.google.com/books?id=dYfhdzYbIa0C" London Gazette, p226-227
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