新聞見出し2

 承前。「モニトゥール紙コピペ」の淵源を探っていくと、古い資料には「モニトゥール紙」という名前がどこにも出てこないことが判明した。
 他にもモニトゥール紙にこの手の文章が載っていない可能性を示す史料はある。一つはArchives parlementaires, Tome XIV"http://books.google.com/books?id=sptJAAAAYAAJ"。同書には1815年3月21日付のモニトゥール紙からの抜粋が載っているのだが、その内容は以下の通りだ。
 
「パリ、1815年3月20日
 皇帝陛下は今夜8時、テュイルリー宮に到着した。彼の通行を妨げるために今朝送り出された同じ兵たちの先頭に立って、彼はパリに入城した。彼の上陸以降に編成された軍はフォンテーヌブローより向こうまで進出できなかった。陛下はいくつかの部隊を閲兵しながら街道を通過してきた。彼は常に、あらゆる場所で彼の前にやって来たおびただしい数の住民の真っ只中にいた。
 皇帝にエルバ島から同行してきた老親衛隊の勇敢な大隊は明日、この地に到着し、かくしてジュアン湾からパリまでの道のりを21日で踏破することになる。
 我々は明日[の新聞で]、陛下の上陸からパリ到着までの途上で何が起きたかを報告する」
p351
 
 まず日付が違う。コピペの元ネタでは22日となっているが、実際は21日付。また「献身的で忠実」とか「歓呼の中」といった表現は見当たらない。テュイルリー宮への入城は「昨晩」ではなく「今夜」だし、コピペの元ネタには存在しないパリ途上や老親衛隊の話が載っている。要するに、コピペの元ネタで使われているのは、少なくともパリ入城部分については、モニトゥール紙から引用したものではないということだ。
 パリ入城の部分だけでなく、ナポレオンのフランス上陸時点の話も怪しい。Fastes de La France, Tome Quatrième"http://books.google.com/books?id=16gMAAAAYAAJ"のp12には「3月7日、モニトゥール紙はナポレオンの上陸を発表した」とあるし、同じページに「8日、モニトゥールは住民に追われたナポレオンが地方を彷徨っていると公表した」とも記されている。コピペ元ネタではナポレオンのエルバ島脱出(フランス上陸ではない)の第一報が3月9日に掲載されたことになっているが、これを見る限りモニトゥール紙はそれより2日も前にナポレオンの上陸を伝えている筈だ。
 よく知られている研究者がこの話を紹介していないことも、一つの傍証になるだろう。例えばThiersだが、エルバ島脱出の部分を記しているHistoire du Consulat et de l'Empire, Tome Dix-Neuvième"http://books.google.com/books?id=IGkPAAAAQAAJ"の本文を検索してみても「コルシカの鬼」や「虎」や「怪物」といった単語は発見できない。同じことはHoussayeの1815. La première restauration"http://books.google.com/books?id=9ZMXQHG5t00C"も言える。少なくともHoussayeによれば「怪物」という言葉を使っているのはフランスの新聞ではなく英国のタイムズ紙だ(p455)。
 実際に3月7日のモニトゥール紙に載ったフランス語の文章までは見つけられなかったが、英訳したものならPaul Britten Austinの"1815 The Return of Napoleon"で読むことができる。そこではナポレオンの上陸を受けた復古王政の政府が出した布告が紹介されている。
 
「ナポレオン・ボナパルトは武力でヴァール県に侵入したことにより、裏切り者であり反逆者であると宣言された。全知事、軍の指揮官、国民衛兵隊、行政当局、さらには個人でさえも、彼を狩り立て、捕縛し、すぐに軍法会議の前へと連行する責務がある。軍法会議は、その身元を確認したうえで、法に基づく刑罰を科すであろう」
p126-127
 
 これを見ても、コピペ元ネタがモニトゥール紙から引用したものでないことは一目瞭然だ。少なくともネット上に出回っているコピペの「官製新聞『ル・モニトゥール』の見出し」という部分は間違いである蓋然性が高い。
 
 では誰がこの見出しについて「モニトゥール紙のものだ」と言い始めたのだろう。一つ見つかるのが、1840年に出版されたRevue de Paris, Tome Vingt-Troisième.http://books.google.com/books?id=u7MZQp1PSfgC IIIe série.に掲載されている文章だ。そこには以下のように書かれている。
 
「もし彼[ナポレオン]によるパリへの勝利の行進を知りたいのなら、モニトゥール紙を調べさえすればいい。この歴史的調査に読者を誘うため、かなり興味深い事例を紹介しよう。ナポレオンがパリへ徐々に行進した際に、その接近が新聞の見解にもたらした変容を知ることができるだろう。
 ――人食いがねぐらを出る。――コルシカの鬼がジュアン湾に上陸。――虎がギャップに到着。――怪物がグルノーブルで一泊。――暴君がリヨンを通過。――簒奪者が首都から60リュー内に姿を見せる。――ボナパルトがパリへ大きく前進したが、決して入ることはないだろう。――ナポレオンは明日、我らの城壁下に現れるだろう。――皇帝がフォンテーヌブローに到着。――皇帝陛下は昨日、忠実な臣民の真っただ中をテュリルリー宮に入城された!」
p164-165
 
 Souvenirs de Voyages.(p153)と題された文章の一部を引用したものだ。著者名はALEX. DUMAS.(p172)、つまり大デュマである。何だまたこいつがでっち上げたのか、と最初は思ったのだが、この文章をよく読むと実はそうではない。デュマはまずナポレオンの帰還について「モニトゥール紙を調べさえすればいい」と指摘。その後で読者にとって興味深いであろう事例として「新聞の見解」opinions du journalを紹介している。そう、デュマが紹介したのはあくまで普通名詞としての「新聞」の見解だ。彼はどこにも「モニトゥールの見解」だなどとは書いていない。
 とはいえ誤解を招きそうな文章であることも確かだ。実際に彼のこの文章に騙されたのかどうかは不明だが、1848年にはドイツ語文献(中身はフランス語の教科書)Praktische französische Grammatik"http://books.google.com/books?id=eZg-AAAAYAAJ"の中に「1815年3月のモニトゥール紙はボナパルトのフランス到着について立て続けに以下のニュースを報じた」(p273)との文章が登場している。同年に英語文献でモニトゥールの名が出てきたことは前回紹介済み。1861年にはフランス語文献La clef de la langue et des sciences, Tome Quatrième."http://books.google.com/books?id=kAETAAAAYAAJ"でも「以下はモニトゥール紙が彼のフランス国内の行進について立て続けに報じた様々な速報だ」(p1048)と書かれるようになった。
 
 デュマが最初から騙すつもりで件の文章を書いたとまでは言わないが、著名な小説家の書いた話はかなり広がりやすいミームになったのだろう。一方、まじめに調べている歴史家の記述は、一般には広まりにくかった。特にインターネットのようにコピペで簡単にミームが拡大する媒体においては、デュマ由来のミームの方がThiersやHoussayeの堅苦しいミームよりも圧倒的に繁殖力に優れている。ネット以前から十分に拡散していたこの(史実であるという裏づけに欠ける)ミームは、ネットという新たなニッチ(生態的隙間)を得て再び増殖を始めているようだ。
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