1799年史料ロンドン・ガゼット その21(part2)

 承前。
 
 ヒラー将軍は真夜中頃にゲナイアー=バーデ付近に第3縦隊を集め、ライネック少佐麾下にある同じ連隊のもう1個の大隊に支援されたバッハ大尉麾下のベンダー[連隊]の1個大隊を、ゼフィス近くにある敵の防御柵と強力な堡塁を攻撃するために送り出した。同時に彼は、縦隊の残りと伴にその後に続いた。この攻撃を手助けするため、彼はビラーカー中尉とベンダーの1個中隊を敵の後方にある極めて高い山へ派出した。作戦は極めて威勢よく行われたため、堡塁はほとんど即座に奪取された。志願兵を指揮していたベンダーのクレフト少尉は、成功に大いに貢献し、負傷した。バッハ大尉は敵をシュロス橋まで追撃し、そこで敵がいくらかの抵抗を試みたため、フーロン中尉がベンダーの志願兵たちと伴に橋を強襲で奪い何人かの捕虜を得た。バッハ大尉は不運にも戦死した。敵をまだ残された逃走路から切り離すため、ヒラー将軍は同時にいくつかの分遣隊を山岳部へ送り込み、彼の縦隊と伴にツィツァースへ前進し、そしてメッツマッハー中尉にベンダーの志願兵たちと伴に押し出すよう命じた。彼は同日夕にクールへ入城した。かくしてあらゆる方面を囲まれた敵は、士官26人と兵1110人が降伏を余儀なくされた。かなりの武器、弾薬、そして衣料の備蓄がツィツァースとクールで見つかった。
 第4縦隊は夜明けにスラピンから、1列で通ることを余儀なくされる狭い道を経て、敵の前哨線へ前進した。プランケット大佐もまた、隘路の出口を守っている前哨線に突入させるためノイゲバウアー連隊の200人を派出した。この分遣隊は敵に発見された。敵は驚き、そしてあらゆる努力にもかかわらず、部隊の残りと合流するためラングヴァルトを渡ってシュリンスへとうまく退却した。プランケット大佐はまた、可能なら敵の退路を断つべく、コロレド少佐をガヴィアの山を越えてケーブリスとコンタースへ派出した。しかし彼もまた発見され、目的を達することはできなかった。プランケット大佐はすぐにシュロス橋のヒラー将軍と合流させるためゲミンゲン[連隊]の1個大隊を騎兵及び武装した農民と伴に送り出した。そしてサン=ジュリアン将軍がドルスリにたどり着いたことを確認するや否や、彼はシュターレンベルク少佐に合流するよう命じ、自身はシュロス橋へ前進した。
 15日、ホッツェ中将はベンダーの2個歩兵大隊及びモデナの2個騎兵大隊でクールを占領し、ライヒェナウ近くの敵の位置を偵察した。続いて激しい砲撃がなされ、敵はライヒェナウの橋を燃やした。ヴァルデックのジャコビ少佐もまた、強力な護衛部隊と伴に偵察のためラガーツへ前進した。結果、攻撃が行われ、敵はラガーツ村に火を放った後で退却した。ジャコビ少佐はプフェッファースを経てヴェリスまで敵を追撃し、クンケルス街道の出口を占拠し、前哨線をザルガンスまで押し出した。これらの優位はとても重要だ。というのも農民の蜂起によって極めて安全性が乏しくなっているに違いないイレンツとディセンティスへの道を除いて敵には退路が残されていなかったからだ。ラガーツでは破壊された2門の大砲が発見された。敵は大いに混乱してヴァレンシュタット湖とディセンティスへ退いた。山岳部へ散っていった敵の多くの分遣隊はそれから降伏した。
 16日、敵はライヒェナウとザルガンスを放棄し、すぐに我々の兵がそこを占拠した。進路上の全ての橋を炎上または破壊するという敵の用心のため、素早く追撃するのは困難だった。兵たちは全てその根気と着実さで名を上げ、特に敵と交戦した者はその勇気を明白に証明した。ホッツェ中将は特にベンダー連隊、第2槍騎兵連隊の少佐の分遣隊、ペーターヴァルダイン第3大隊、及びブローダー分遣隊(ライフル銃兵)の行為を称賛した。ホッツェ中将の見解によれば、ヒラー将軍は自身の軍事に関する広い知識と偉大な決断力、及び過去多くの機会に明示してきた他の模範となる安定性を新たに証明した。ツェラチッチ将軍とベイ伯爵、そしてプランケット大佐のよき行為と疲れを知らない行動力、そして彼らに委ねられた命令を実行する際の几帳面さは、この事業の幸運な結果をもたらす大きな要因になった。砲兵のヴァハテンブルク少佐は、その行動と、大砲を配置する際の思慮深いやり方とが十分満足行くものだった。補給部門所属のロンベルク大尉は、今月1日に個人的な勇気とフラッシュ攻撃の際にしめした偉大な判断力で名を馳せた。そして14日の戦闘では彼の行動はあまりに称賛に値するので、ホッツェ中将は勝利の最初の報告と伴に彼を戦場から大公殿下のところへ送り出すのが正しいと考えたほどである。ホッツェ中将は特に補給部門所属のマイアー大尉を褒めている。彼の土地に関する正確な知識は攻撃のための配置を決めるのに役立ち、それによって彼は敵の敗北に極めて大きな貢献をした。戦役開始時点からホッツェ中将にとって最も役立つ者として積極的に使われていた第1ヴァラキア連隊のグラッツェ大尉も、同将軍から大いに称賛を受けた。いくつかの縦隊の指揮官たちは、以下の士官たちについてその特に優れた行動を称賛した。第1縦隊――うち第2槍騎兵連隊の少佐の分遣隊、伯爵トラウトマンスドルフ少佐、キッセルヴェルスキー大尉とブレットシュナイダー大尉、コニアッシュ中尉、チェルナ中尉――うちモデナ竜騎兵、ペッツ少佐、ガルニカ大尉――うちヴァルデック竜騎兵、ジャコビ少佐、男爵サーペス中尉、プラッツ伍長――うちケルペン歩兵連隊、伯爵ガヴァシーニ大佐、ニーダーマン大尉、伯爵キンブルグ少尉――うち騎馬砲兵、カルノフ中尉――うち民兵、ヴォケナー大尉と彼の中隊全員。第2縦隊、ペーターヴァルダイン第4大隊のエルフォス少佐で、ホッツェ中将は彼が陣地を奪ったと認めている。第3大隊のミクシッヒ大尉、ヴァシッヒ少尉、及びコヴァックス軍曹。ペーターヴァルダイン第4大隊のノフィッヒ中尉、及びガイゲン少尉。第1ブローダー大隊のライアクシッヒ中尉とイリッヒ少尉。ブレシャインヴィル擲弾兵のゲルベート大尉はオーベルラントの民兵を指揮し、その大いに優れた行動と勇気で名を上げた――うちベンダー歩兵連隊、ライネック少佐、バッハ大尉、ラグット中尉、メッツマッハー中尉、ゾダン中尉、ビルハーツ中尉、及びマルディーニ中尉、フーロン少尉、クラフト少尉。ヒラー将軍は補給部隊のバウムガルテン大尉について高く評価している。モンタフーネルの民兵ではパトロック大尉とその中隊。第4縦隊では補給部隊幕僚のリヒター少佐、第3ノイゲバウアー連隊のシュターレンベルク伯爵――うち民兵、フールニエ大尉とコスラー大尉。
 全体を通じての我々の損害合計は死傷者100人を超えていない。敵は死傷者と溺れた者を含め1000人を数えたであろう。捕虜は合計3000人近くに達し、うち100人が士官だ。その数は日々もたらされているので、正確な数値はまだ送ることができない。13門の大砲、2門の榴弾砲、及び22両の弾薬車が我々の手に落ちた。敵は退却の際に多くの弾薬車に火をつけ爆破した。ホッツェ中将は最後に彼の副官であるネスター大尉のよき行為と活動的な軍務を称賛した。
A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8"http://books.google.com/books?id=dYfhdzYbIa0C" London Gazette, p220-225
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