牡牛殺し

「半月刀片手で牡牛の頭を切り落とすと言われた男である」
 
 ナポレオン漫画ではムーラッド・ベイについてこのように書かれていた。その論拠になっているのはおそらくソンニーニ"http://fr.wikipedia.org/wiki/Charles-Nicolas-Sigisbert_Sonnini_de_Manoncourt"だろう。彼は旧制度下でエジプトに旅行し、その時の体験を記した本を1798年に出版している。翌1799年には英語にも翻訳されたようで、それだけ人気があったのだろう。
 ソンニーニのVoyage dans la haute et basse Egypte, Tome Second."http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k85340w"には「極めて勇敢だったうえに、彼[ムーラッド・ベイ]は異常な力と敏速さを兼ね備えていた。馬に乗って通り過ぎる際に牡牛の頭をシャムシールのたった一撃で切り落としたのを目撃されたことがある」(p325-326)との一文がある。
 ただし、ソンニーニの書き方を見る限り、ソンニーニ自身はムーラッドが牡牛の頭を切り落とす場面を見ていた訳ではなさそうだ。おそらく伝聞に基づいて書いたのだろう。要するに、ムーラッドが牡牛の頭を切り落とした点に限るなら、この文章は二次史料でしかない。まさに切り落とすと「言われた」だけであって、「切り落とした」と断言はできないのだ。
 ムーラッドを真の意味で「牡牛殺し」と呼ぶのは難しそうだが、他にこの称号にふさわしい人物はいなかったのだろうか。一応いた。中身を詳細に調べると微妙な部分もあるが、とりあえず「俺はヤツが一撃で牡牛の首を刎ねるのを見た」との証言が伝わっているのだ。目撃者の名はシドニー・スミス。彼が名指しした「牡牛殺し」とは、他ならぬアクルのパシャ、ジャザールだ。
 The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I."http://books.google.com/books?id=_EDSAAAAMAAJ"には、あるディナー・パーティーの席でスミスが友人にした話が紹介されている。
 
「ある日、シドニー・スミスがジャザールと一緒に遠乗りに出かけた時、ダマスカス鋼の優れた刀身が話題になった。彼[ジャザール]は、よく鍛えられたものなら、刀身を曲げたり損ねたりすることなく、一撃でどのような動物でも、人間でも獣でも、頭を胴体から切り離すことができると言った。『今私が持っているものも、切りそこねたことはない。これで私は数十の頭を刎ねてきた』。シドニー・スミスは『よろしいです、パシャ。ならばついでに今我々が近づいているあの牡牛たちのうち1頭の首を切り落として、あなたのダマスカス鋼とあなた自身の練達ぶりを目の前で証明していただけませんか?』と答えた。『了解ですとも、とくとご覧あれ』と言って彼は馬を走らせ、道の近くで草を食んでいた哀れな牡牛に一撃を加えた。牛の頭はすぐに地面に転がった」
p295-296
 
 パーティーに出席していたある紳士は「それだけ正確に関節に切りつけたのだとしたら、この年老いたパシャは解剖学の専門家に違いない」と言ったそうだ。それに対し、スミスは「彼の名前ジャザールは屠殺者の意味で、つまり関節を扱う専門家だ――でもジャザールなら君に、ダマスカス鋼の前では関節も骨も関係ないと言っただろうね」と返事をしたという。
 この話が事実なら、ジャザールこそ「牡牛殺し」の名にふさわしい人物になる。もっとも、この本の編集者であるBarrowがどこからこの挿話を引っ張り出してきたのかが不明なうえに、そもそもパーティーの席上での話だけに面白おかしく語っているが事実でない可能性もある。ムーラッドの話よりは事実である蓋然性が高そうだが、史実と断言するには証拠不足、といったところか。
 それにしてもこの時、ジャザール"http://en.wikipedia.org/wiki/Jezzar_Pasha"の年齢は80歳近くの筈。ソンニーニがエジプトを訪れた時に20代後半だったムーラッドならともかく、80近い爺さんが一撃で牡牛の首を刎ねたと聞いてもいささか信じがたいのは確かだ。ジャザールが高齢であったことはシドニー・スミスも繰り返し書いているし、やはり彼を牡牛殺しに認定するのは困難かも。
 
 牡牛殺しはともかく、アクル攻囲の際にジャザールがかなり勇敢かつ恐れ知らずな行動を見せていたのは事実のようだ。スミスが1799年5月9日付で記したセント=ヴィンセント伯宛て報告書には「伝統的なトルコの慣習では司令部に座って敵の首を持ってくる者に報酬を与えることになっていたが、ジャザールは英国兵が城壁の破口にいると聞いてそこを離れ、自らの手でマスケット銃の弾丸を配った。精力的な老人は我々の背後まで来て、私の英国の友人に何かあったら全てが失われると言いながら力ずくで我々を[破口から]引きずりおろした」と記している(The life and correspondence of Admiral Sir William Sidney Smith, Vol. I. p287)。
 シドニー・スミスが守備隊による出撃を提案した時も「素早く応じた」(p288)そうで、町の防衛にジャザールが積極的に関与していた様子が窺える。具体的な作戦案も出しており、フランス軍が突破口へ接近してきた時には「パシャの案は今回は破口を守らないというものだった。代わりにトルコ式の戦闘法として、いくらかの数の敵を入れそのうえで彼らと交戦する」(p289)ことを提案している。日本語文献などではジャザールはアクルの奥深くに臆病に閉じこもり、実戦をスミスとフェリポーに任せきりだったという話がしばしば紹介されているが、スミスの記録を見る限り決してそんなことはない。
 ジャザールが消極的で、しばしば臆病ですらあったという話の出所は、もしかしたらナポレオンかもしれない。彼はセント=ヘレナで、フランス軍が町に攻撃を仕掛けた時「恐怖がトルコ兵を襲い、彼らは港へ逃げ出した。ジャザールに至っては実際に船に乗り込んだ」(Mémoires pour servir à l'histoire de France sous le règne de Napoléon, Tome Cinquième."http://books.google.com/books?id=E7gNAAAAIAAJ" p145)と話している。
 別の本には「財宝と妻たちを船に積み、自らも乗船したジャザールは、一晩船上で過ごした」(Guerre d'Orient, II."http://books.google.com/books?id=z6sWAAAAQAAJ" p74)と書かれている。ベルトランがまとめたこの本もナポレオンのセント=ヘレナでの発言に基づくものであり、要するにナポレオン自身の見解を示しているものだ。だが、実際にアクル攻防戦の間、ジャザールの傍にいて彼の様子を直接見聞きしていたのはボナパルトではなくスミス。城壁の反対側にいたボナパルトが、パシャの動向をスミスよりきちんとつかんでいたとは思えない。ジャザールの人となりについては、ボナパルトよりスミスの証言を信用すべきだろう。
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