下ネタ

 彼は1749年、バイヨンヌに生まれた。1766年に軍に入った彼は翌67年に伍長、68年に軍曹と、短期間で下士官へと昇進を遂げた。兵士の中では優秀な男だったのだろう。もちろん旧体制の時代だけに、一介の兵卒として入隊した彼がすぐ士官になるのは無理で、結局常備軍で彼がたどり着いた最高の地位は曹長に過ぎなかった。だが、その彼に革命というチャンスが訪れる。1792年、軍隊経験者であった彼は志願兵大隊の中佐に選ばれる。
 彼は生まれ故郷の近くである西部ピレネー軍に所属し、そこで戦った。94年には将軍の地位にまで上りつめ、ブラン=ピニョンというところで勝利も収める。だが、彼が前線で戦ったのはこの対スペイン戦争だけ。スペインと講和が結ばれた後も彼はバイヨンヌを含む軍管区で勤務を続け、1803年には引退している。1827年に死去。
 彼の活躍はフランス革命からナポレオン戦争に至る時代の軍事史をまとめたVictoires, conquêtes, désastres, revers et guerres civiles des Françaisにも掲載されている。同書第2巻"http://books.google.com/books?id=c719y1bSsPUC"によれば、ブラン=ピニョンの陣にいた彼は「スペイン軍を勢いよく追撃し、多くの落伍兵を殺害した」(p251)ことになっている。スペイン軍相手とはいえ、この時代のフランス軍は決して楽に勝てていた訳ではない。だからこそ彼の活躍は賞賛に値すると思われたのだろう。

 問題は彼の名前。同書を見ればはっきりと分かるのだが、Mancoと書いてある。非常に日本語で表記しづらい名前だ。でも、例えばGeorges Sixの"Dictionnaire Biographique..."を見ても、こんな名前の将軍はいない。一体どういうことだろうか。
 実は彼の名前の本当の綴りはMauco。ジャン・モーコという名前なのである。これならSix本の第2巻p169-170にしっかり掲載されているし、他にもDictionnaire historique, Tome Neuvième"http://books.google.com/books?id=DmEMAAAAYAAJ"のp35-36に彼の簡単な経歴が紹介されている。さすがにwikipediaなどでは探しても見つからないし、その意味でかなりマイナーな将軍であることは確かだが、それでもモーコ将軍は実在した。実在しなかったのはManco将軍である。
 それではなぜ"Victoire..."の中にManco将軍などという変な綴りが紛れ込んでしまったのか。おそらく元凶と思われるのが西部ピレネー軍の派遣議員から公安委員会へ送られた共和国暦2年花月10日(1794年4月29日)付の報告書である。Recueil des actes du Comité de salut public, Tome Treizième"http://www.archive.org/details/recueildesactes01parigoog"に載っているその報告書内には、「以上がMancoによって守られた陣地における成功した戦闘です」(p140)という文章が紛れ込んでいるのだ。
 もちろん原文は手書きだと思われるので、本来の史料に活字でMancoと書いていた訳ではないだろう。ただ、本当ならuとあるべきところがnと読めてしまうような文字だった可能性は高い。派遣議員が将軍の名前を間違えて書いてしまったのか、あるいはきちんと書いたつもりだがとても読みにくい文字だったため受け取った人間がMancoだと思い込んでしまったのだろう。かくしてモーコ将軍の名がいつの間にやらMancoになってしまった。
 それにしてもモーコ自身も、あるいは西部ピレネー軍の派遣議員も、この書き間違いが200年後に遠い極東の地でネタに使われるとは思ってもみなかっただろうな。まあインカ帝国の初代皇帝のように、書き間違いですらなくそのものズバリという名前に比べれば、まだマシかもしれないが。

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