戦争と疫病

 承前。ヤッファでの捕虜虐殺について。

 虐殺は当時から問題になっていたようだ。詳細はSchurの本"http://www.amazon.com/dp/1853673455/"を見てほしいが、最初に火付け役となったのはロバート・ウィルソンの書いたHistory of the British expedition to Egyptの第二版"http://books.google.com/books?id=ejfRAAAAMAAJ"で、そこでブオナパルテが捕虜を虐殺したことを初めて広く一般に知らしめた(p74-75)。そこには処刑に当たった士官が文書による命令を要求したのに対し、ボナパルトがベルティエを派遣して命令に服従するよう強要したと書かれている。漫画でボナパルトがベルティエに向かって「お前が処刑の指揮をとるんだな」と言っている場面も、案外論拠がない訳でもなさそうだ。
 ただし、最初の頃には異論もあった。2年後の1801年にヤッファを訪れた英国人クラークは、ヤッファの住民の誰からもそんな話は聞いたことがないと書いている(Travels in various countries of Europe, Asia and Africa, Volume the Fourth"http://books.google.com/books?id=l14GAAAAQAAJ" p439-440)。彼はヤッファ近くの海岸に埋まっていた死体も見つけているのだが、それは疫病の死者を埋葬したものだと説明を受けたそうだ(p441)。
 ボナパルトの敵である英国人が「虐殺があった」「いやなかった」と議論している間、ナポレオンの支配下にあったフランス人は沈黙を保っていたようだ。彼らが最初に口を開いたのは、ナポレオンが退位した後の1814年。上に記したミオーの本に出てきたのがはじめてらしい。以後、様々な回想録に虐殺の話が出てくる。これまで紹介したものの他に、リシャルドのRelation de la campagne de Syrie"http://books.google.com/books?id=Cv-NVCOYlWMC"(p20-21)、ドゲローのGuns in the desert"http://books.google.com/books?id=2XAeMj3Z7mkC"(p67-68)などがその例。La Jonquièreの本にはさらにそれ以外の史料も載っているようだ。
 何よりボナパルト自身が虐殺の事実を否定していない。彼はセント=ヘレナでオミーラに向かって「[殺された捕虜が3000-4000人というのは]そんなに多くはない。私は1000人から1200人を射殺するよう命じ、その命令は実行された」(Napoleon in exile, Vol. I."http://books.google.com/books?id=aFg2AAAAMAAJ" p329)と言及している。Schurはオミーラの本は信用できないとしているが、ハドソン・ローが1817年1月に記した手紙の中にもナポレオンがヤッファの虐殺について言及しているとの話が書かれており(History of the captivity of Napoleon at St. Helena, Vol. II."http://books.google.com/books?id=g9AsAAAAYAAJ" p94)、オミーラの話が全くのでたらめではないことを窺わせる。
 ベルトランがセント=ヘレナでのナポレオンの発言をまとめたGuerre d'Orient, II."http://books.google.com/books?id=vGc-AAAAYAAJ"にも、捕虜殺害を認める記述がある。「捕虜2500人の中にはエル=アリシュの守備隊が800から900人含まれていた。彼らは1年間はシリアに戻らぬと誓ってバグダッドへ向かった筈だった。(中略)彼らはかくして自らの誓いを破った。彼らは処刑された」(p49)。ナポレオンにとって捕虜虐殺はきちんと大義名分があったことになる。ただし、降伏したエル=アリシュ守備隊との協定を最初に破ったのはボナパルトだ、という批判が存在することは既に指摘している。

 漫画のボナパルトは捕虜について「全員殺せ」とあっさり命令している。これに対し、捕虜殺害については部下の将軍たちと話し合って決めたとしている史料もある。前に紹介したブーリエンヌの他に、ウジェーヌ、リシャルドなどがそうした話を書き残している。一方、ベルノイエなどは捕虜問題を論じる会議について何も記していないようだ。Schurは「ナポレオンは通常、自ら判断した」(p67)と述べ、部下との話し合いはなかったとの見方を示している。
 ナポレオンの書簡集(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième."http://books.google.com/books?id=glouAAAAMAAJ")から想像するに、この件についてはSchurの見通しが正しいのではないだろうか。ボナパルトは3月9日付のクレベールやレイニエへの手紙で「ヤッファの守備隊は4000人弱だった。うち2000人は街中で戦死し、2000人弱は昨日から今日にかけて射殺された」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p351, 354)と書いており、またデュギュア宛の同日付の手紙には「守備隊を構成した4000人はすべて攻撃または処刑によって滅んだ」(p351)と記している。事前に将軍たちと相談して処刑を決めていたのなら、改めて手紙の中に記す必要はないと思われる。事後報告として捕虜殺害を記したのではないだろうか。

 そして漫画のラストではいよいよペストが兵士の間で広がり始める。ペストは今でも危険性の最も高い感染症として「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」の一類感染症に分類されている"http://www.forth.go.jp/mhlw/animal/page_i/i01.html"。他の一類感染症を見ると、名前を並べているのはエボラ出血熱や天然痘など錚々たる感染症ばかり。正直、こんなものとは一生お目にかからずに済ませたいものだ。
 ペストは現代においても「治療を行わない場合には、非常に高い致死率を示す」という。最も多いのは腺ペストで、潜伏期は3~7日、その後に40度前後の発熱に見舞われ、強い全身性の症状が現れる。発症から3~4日後に敗血症を起こし、その後2~3日以内に死亡するそうだ"http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k01_g3/k01_51/k01_51.html"。敗血症型ペストや肺ペストになると、症例は少ないが危険度はさらに高まる。
 ナポレオン戦争の時代、最も多くの兵を殺したのは、白刃でも弾丸でもなく病気だと言われている。たとえばサン=ドマング(今のハイチ)に遠征したフランス軍は、黄熱"http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k02_g1/k02_23/k02_23.html"でほぼ壊滅状態に追い込まれている(黄熱は今でも旅行者などの致死率が50%以上になることがある"http://www.forth.go.jp/tourist/kansen/06_yell.html")。ロシアへ遠征した大陸軍を壊滅させた主役は冬将軍ではなく発疹チフス"http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k05/k05_09/k05_09.html"だとの説もある。
 こちら"http://entomology.montana.edu/historybug/napoleon/napoleon.htm"ではナポレオン戦争に及ぼした病気の影響が取り上げられている。それによるとシリア遠征時の戦死者1200人に対し、病死は1000人、病気または負傷者は2500人だそうだ。エジプト遠征全体におけるペストの死者となると、その数は2000人。決して軽視できる数字ではないが、ペストという名の恐ろしさからイメージされるほど酷い損害とは思えない。
 むしろ黄熱や発疹チフスの方が深刻だ。サン=ドマング遠征ではフランスに帰国できたのはたった3000人で、最大5万人は黄熱で死んだという。ロシア遠征になるともっと酷く、病気や怪我などによる死者は約40万人。最大22万人は病気のみが理由で死んだという。加えてロシアの捕虜になった10万のフランス人のうち半数は死んだ。これらの死者の多くは発疹チフスによって死んでいったと考えられる。発疹チフスは戦争になると猛威を振るうタイプの病気であり、ロシア遠征は彼らにとっての天国(人間にとっては地獄)だったのだろう。

 以上で今回は終わり。本当はアーメッド・アル=ジャザールについても何か語った方がいいのかもしれないが、彼がもっと具体的な活動をするようになってから改めて取り上げることにしよう。

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コメント

No title

SLEEP
最近のインフルエンザ対策も同じだと思うんですが、軍隊や学校のような集団生活を営む空間というのは細菌やウィルスにとっては宿主から宿主へと飛びまわれる大変ありがたい状況で、しかも年齢や生活環境なども一定ですから他の競争相手をも排除できるわけですね。それに栄養状態が悪化すればどうなるか、ロシアのようなくそ寒い国では体温維持だけでもカロリーがバカになりませんしね。それに徒歩による従軍ですからねえ。極地を歩いて探検すると一日に二万ぐらいのカロリーが必要とか読んだことがありますが、だいたいメガマックを一日20個食えとか言う話ですね。

No title

desaixjp
インフルエンザが代表例ですが、体力のない人(子供や年寄り)はどうしても病状が悪化しがちです。戦争のように多くの人が体力を消耗し、なおかつ集団で行動している状態というのは、確かに病原体にとっては理想的な環境でしょう。
ロシア遠征でも寒さや栄養不足が病気を手助けしたと思われます。直接の死因が「凍死」や「餓死」だった人は少なかったかもしれませんが、寒さや栄養不足がなければ病死せずにすんだ人はもっと多かったことでしょう。もちろん、病原体があそこまで広まらなければ、やはり死者はもっと少なかった可能性があります。ナポレオンの野望は病原体によって阻止された、と書いている人もいます。
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