副官か司令官か

 ナポレオン漫画最新号を読んで「漫画ってのは不謹慎なものである」ということを改めて思い出した。ヤッファにおける捕虜虐殺という極めて深刻なシーンの真っ最中に「ビクトルよくやった」「お前は尻の仇を討ったんだ」「俺の尻だあーッ」って一体どういう会話だよ。冒頭にポーラ・フーレスの死でしんみりさせたと思わせていきなり見開きでクレベールのヤクザキックを見せる場面もそうだが、昔だったらPTAが騒ぐレベルだったかもしれない。いいぞもっとやれ。
 ビクトルやクレベールが悪目立ちしたおかげで影が薄くなったのがジャザール。印刷も薄くなっていた。せっかくの初登場なのに今一つなのは、彼の言動がおそらく史実通りだからだろう。何しろこの漫画、出てくるキャラが軒並み変態になってしまっているため、史実では突出した変態であるジャザールが漫画では埋もれてしまっている。本領を発揮するためにはもっと変態度を増す必要があるのだが、次回以降には新キャラ(戦報にも載っていたシドニー・スミスやフェリポーなど)がまた史実より変態になって登場するだろうから、さらに埋もれてしまうかもしれない。何と不遇な。
 ちなみに作者のblogを見るとジャザールの日本語訳が「殺し屋」になったのは「屠殺人」が差別語になるからだそうだ。おそらく「屠殺人という言葉を人殺しの意味で使うのは差別的だから」というのが理由なのだと想像する。言われてみればその通りなんだが、一方で歴史の本などを読むとジャザールとはbutcherの意味だと堂々と記していることも確か。ま、フィクションなんだからそんな細かいことは気にせず読めばいいか。

 さて史実との比較。フーレス&ヤクザキックはどちらも完全なフィクションなのでパスするとして、最初に取り上げるのはウジェーヌによる捕虜ゲットだぜの場面。前月の戦報にある「フランス兵は[オスマン兵が立て篭もる]家ごと焼き殺そうとしたが、居合わせたウジェーヌ・ボーアルネと別の士官が正義感からそれを止め、トルコ兵に降伏を勧めて生命を保証すると約束した」のシーンを反映したものだろう。
 同じことはPaul Strathernの"Napoleon in Egypt"(p325)やJ. Christopher Heroldの"Bonaparte in Egypt"(p274)にも書かれている。ウジェーヌと一緒に捕虜の降伏を受け入れたのは同じくボナパルトの若い副官だったクロワジェ。ちなみにこのクロワジェに関しては、後にアレクサンドル・デュマが書いた旅行記の中に彼の登場する話が紹介されている。漫画にも前に出てきたが、赤い服の男に関する話だ(英訳がこちら"http://books.google.com/books?id=juLQAAAAMAAJ"のp266-272に載っている)。
 StrathernやHeroldを見ればわかるのだが、この捕虜確保話の元ネタはブーリエンヌだ。ボナパルトによって送り出されたウジェーヌらはオスマン兵が建物に篭って抵抗していることを知り、その建物に入っていった。オスマン兵は「命の安全を保障してくれるなら降伏したいと窓から叫んだ」(Mémoires de m. de Bourrienne, Tome Second."http://books.google.com/books?id=88EWAAAAQAAJ" p180)。ウジェーヌたちは彼らの命を最後まで守ると宣言し、その降伏を受け入れた。オスマン兵は2つのグループに分けて司令部へつれてこられたが、その数は一方が2500人、他方が1500人に達していたという。
 だが、ボナパルトはこれを見て渋い顔をした。彼はブーリエンヌに「このくそったれどもをどうすりゃいい」(p181)とこぼし、ウジェーヌとクロワジェの行為を強く批判したうえで今後の対応を決めるため将軍たちを集めて会議を開いた。数日間にわたる議論の末、3月10日に彼らを射殺するとの命令が下された(p183)、というのがブーリエンヌの説明だ。さて、果たして彼の証言は信用できるのだろうか。
 Nathan Schurは"Napoleon in the Holy Land"の中でヤッファの虐殺について多数の史料を引用しながら詳しく分析している(p61-70)。もちろんその中にはブーリエンヌの話も載っているのだが、「詳細に検討すれば、ブーリエンヌが頼りにならない目撃者であることが明らかになる」(p63)と指摘。ブーリエンヌの話は「極めて慎重に扱わなければならない」(p64)としている。つまり、ブーリエンヌの証言だけで決めてはいけないということだ。そして、そう考えながら他の証言を調べていくと、呆れたことにウジェーヌ絡みの話を紹介している人物がブーリエンヌ以外に見当たらないことが分かる。
 まずウジェーヌ自身を見よう。彼は「大虐殺に満足した我々の兵は、2日目にヤッファでいくらかの捕虜を得た。その数は、小さな要塞に篭って同日に降伏した者たちによって約800人まで膨れ上がった。司令官は、部下の将軍たちの意見を聞いた後で、これらの捕虜全員を銃殺することを決めた」(Mémoires et correspondance politique et militaire du prince Eugène, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=lAQKAAAAIAAJ" p54)と記している。見ての通り、どこにも彼自身が捕虜の降伏を受け入れたという話は載っていない。
 ミオーのMémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Égypte et en Syrie"http://books.google.com/books?id=b09VI5vVdlQC"を見ても、「守備隊の一部は要塞の一つとモスクに後退した。彼らは武器を置き[降伏の意]、司令部のあるテント前の宿営地に連れてこられた」(p140-141)としか書かれていない。これまたウジェーヌの名はどこにも見当たらないのだ。
 一方、捕虜を受け入れた人物としてウジェーヌではなく別の名を上げている目撃者もいる。一人はベルノイエで、立て篭もる守備隊を見て「この骨の折れる陣地を攻撃することで出るであろう損害を予想したボナパルトは、生存者に降伏を勧めた。彼らは喜んでボナパルト将軍の申し出を受け入れた。彼[ボナパルト]は彼らに対し、武器を置けばシリアの国境まで彼らを送り出すと約束した」(Schur, p66)。同じことを書いているのがペリュッスで、3月10日付の母親宛の手紙には「司令官の名の下になされた約束を受け、約3000人が武器を置き、宿営地に連れてこられました」(Schur, p185)とある。
 ブーリエンヌの回想録以外に証拠がない「ウジェーヌ&クロワジェ説」と、複数の手紙(回想録よりリアルタイム性が高い)に記されている「ボナパルト説」。どちらがより蓋然性が高いかと言えば普通に考えて後者の方である。HeroldやStrathernは何も考えずにブーリエンヌの話を紹介しているが、実際にはSchurが指摘するように「ナポレオンがいかに残った守備隊を騙して降伏させたかというベルノイエの話」(p67)の方が史実に近いと見ていいだろう。

 続いてシリア遠征中で最大の問題行為と言える捕虜の虐殺だが、かなり長くなってしまったので以下次回。

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