1799年史料ロンドン・ガゼット その14

 ウィーン・コート・ガゼットの第1の特別な追加分、5月8日
 ウィーン、5月8日
 伯爵ベレガルデ元帥[ママ]はディートリッヒ中尉を通じ、4月30日から5月3日における彼の麾下の軍による攻撃作戦の予備的な詳細を送ってきた。
 4月下旬にかけて天候は少し回復し、道路がより使用しやすくなったため、伯爵ベレガルデ元帥[ママ]は準備していた攻撃計画を遅滞なく実施することを決断した。それは4月30日に、2個縦隊といくつかの分遣隊によって実行された。主力である第1[縦隊]は伯爵ベレガルデ元帥[ママ]が、第2[縦隊]はハディック元帥[ママ]が指揮した。いずれの縦隊も、時に攻撃を行い時にはデモンストレーションのみをする分遣隊の作戦によって支援された。
 第1縦隊はナウデルスからエンガディーヌへ侵攻した。イン河をいくつかの浅瀬で渡る必要があり、兵たちは極端な寒さにもかかわらず大いに意欲を示して行動した。何人かが急流で失われた。
 攻撃の合図が下されるや否や敵の前哨線は全て同時に第1縦隊と上及び下ロヴェレンへ向かう道をとった分遣隊に攻撃された。敵の大半は殺され、残りは逃走した。しかし敵の予備拠点は地の利を活用して寸土を争った。
 シュトラーダからラミスまで、第1縦隊と分遣隊は最も困難な山を登り、同時にいくつかの有利な場所から敵を追い出すため戦うことを余儀なくされた。
 12時にかけ、この縦隊はラミス前面に到着した。敵はラミス峡谷を見下ろす高地と、ラミス村自体から、ラミスの背後にある塹壕陣地まで追い払われた。
 もともと極めて有利だったこの陣は、敵が正面と右側面に築いた防御陣地によってさらに強力になっていた。
 この塹壕陣地の左翼、マナス側に対して、最も決定的な攻撃が行われた。
 ベレガルデ中将は特別縦隊に、イジルとシュピルスから山を通ってシュライムスとマナスへ侵攻し、その後でマナス上流でラミス川を渡るよう命じていた。この縦隊は、編成された場所から急峻な山地におけるいくつかの極めて骨の折れる行軍を既に行っていた。そのため、マナスから険しい峡谷を前進する際に、兵たちはほとんど体力を使い果たしていた。
 その方面において敵は、極めて狭い通路を通ってしか届かないところに相次いで3つの塹壕を築いて自らを守っていた。だがその[特別]縦隊は、兵士たちが疲れ切っていたにもかかわらず、これらの塹壕のうち2つを奪った。しかし敵の頑強な抵抗と、彼ら自身の極端な疲労のため、3つ目にたどり着くことはできなかった。
 この縦隊が敵の左側面に到着するや否や、敵の右側面の塹壕に攻撃をしかけるのがベレガルデ元帥[ママ]の意図だった。
 この襲撃を委ねられた兵たちは、柵を持つ分厚い陣地に前進し、極めて活発な大砲とマスケット銃の射撃にもかかわらず、陣地が築かれた急峻な高地へと登った。彼らは柵を突破した。だが疲労のため彼らは陣地に侵入するまで我慢することができなかった。既に何度か後退しながら繰り返し戦力を投入し胸壁の背後で頑強に自らを守ってきた敵をこの陣地から追い払う希望故に、攻撃部隊は溝から数歩のところに長期間とどまり、双方とも寸土も譲らなかった。
 夜になり、ベレガルデ元帥[ママ]は宿営地への襲撃を翌日まで延期することを余儀なくされた。
 その間、ハディック元帥[ママ]は彼の縦隊と伴にシャールを越え、峡谷をシュルス橋まで侵攻することに成功した。ベレガルデ伯は彼の成功を当てにした。敵はもはやラミス川の背後の陣地を維持することができず、さらにベレガルデ元帥[ママ]の縦隊が彼らの右翼背後を占めたため余計そうなった。
 ハディック伯の縦隊は、その編成地点から攻撃地点まで雪に覆われた極めて急峻な山地を10時間にわたって移動しなければならなかった。彼は山頂の一つで兵たちを数時間休ませた。しかし僅かな火しかおこすことを許せなかったため、彼らはやむを得ず極度の寒さに苦しんだ。
 午前4時頃、ルソー大佐が指揮する前衛部隊が敵の前哨線を攻撃した。彼らはすぐ追い払われた。敵の予備兵力はシャール村近くの拠点を維持した。彼らは1時間に及ぶ頑強な戦いの後でなければ退却しなかった。戦いの間に我々は何人かの捕虜を得た。
 縦隊は継続的な射撃によって1時半まで敵の敗北した部隊を追撃した。しかし前衛部隊は予想しなかった陣地に直面した。そこは自然と人の手によって強力に要塞化され、正面は狭い道を通ってしか到達できず、突入しようとしたルソー大佐のあらゆる試みは敵の活発な抵抗によって無駄に終わった。
 ついに大佐はギウチャック中尉が指揮するいくつかの中隊を派出し、彼らは逆茂木を抜ける極めて長い脇道を通って敵左側面の陣地背後に出た。そして彼らが丘の上から右側面を苦しめている間に、正面への攻撃に一段と力を裂くことができた。この方法で敵はすぐに多くの損害を出してこの拠点を放棄することを強いられた。縦隊は前面へ押し出したが、ほとんど乗り越えることが不可能な障害に出会った。通り抜けられるのは岩場の下り坂にある狭い窪んだ道だけで、敵の塹壕からの射撃に完全に晒されていた。
 正面から敵に接近するのが不可能だと知ったハディック中将は、ほとんど近づくのが困難に見えた高地から敵陣地の背後を攻撃し、彼らが全く予想していない試みによって彼らをその拠点から追い出すことを決断した。ル=ルー部隊の猟兵長マテューと何人かの猟兵、及びエニエター大尉と1個中隊、アントワーヌ・エステルハージ連隊の半数がこの企図を任され、彼らは鎹を使って敵に見つけられないように山地の最も高い頂に登った。敵の注意が正面の山地からの砲撃に向けられている間、分遣隊はエニエター大尉を先頭に敵後方の凍りついた峡谷を降りてその陣地を奪った。
 この大胆な試みは完全に敵を動揺させ、我々の前衛部隊に敵正面の狭い道から突入する時間と機会を与えた。陣地は襲撃によって奪われ、敵はさらに背後に新たに布陣した。しかし彼らはそこで攻撃を受け、多くの損害を出して追い出された。退却を援護するため彼らは木製の橋を破壊し、それは1時間半以内に修復することはできなかった。
 ハディック中将は強行軍でシュルスまで前進した。しかし彼はシュルス近くのイン右岸の高地で停止することを強いられた、というのも24時間の行軍で疲労した彼の兵たちは新たな攻撃をすることができず、シュルス近くのイン河にかかる橋は破壊されており、唯一の渡渉可能な浅瀬は敵砲兵隊に押さえられていたためである。
 ミヒャエル=ヴァリス連隊の伯爵ファイセンヴォルフ中佐が指揮する残った左翼の分遣隊は、チッファー峡谷の敵を警戒させ、彼らをツェルニッツにとどめることになっていた。この部隊もまた攻撃地点に到着するため極めて長く困難な行軍を強いられた。その前衛部隊は敵の全ての前哨線を予備のいるところまで追い払った。予備は逆茂木の背後に布陣し、しばらくの間は部分的なマスケット銃の射撃のみがあった。しかし敵は増援を受け、我々の前衛部隊を攻撃したが撃退された。正午頃、敵は大軍で陣地から出撃し、攻撃を再開した。我々の前衛部隊は予備のところまで押し返され、もはや雪が彼らに耐えるだけの力を持たないために敵に対して前進することができず、既に記した狭い道を通って退却を余儀なくされた。後衛部隊の一部は敵の手に落ちた。
 第1縦隊は何人かの士官(その中には大佐[chef de brigade]がいた)と兵士たちを捕虜にした。大砲1門、火薬を積んだいくつかの車両が我々の手に落ちた。
 ハディック中将の縦隊もまた何人かの捕虜を得た。
 5月1日、夜明けに前衛部隊はフォッタンまで前進し、第1縦隊はシュルスとフォッタンの間で第2[縦隊]と合流した。
 敵の拠点はガルダとラヴィンの間にあった。前日の多大な疲労が原因で兵士たちは高く急峻なフォッタンの高地より先に進むことができなかった。
 5月2日、再合流した縦隊はフォッタンからラヴィンへ行軍し、主要街道に布陣した。ボーリュー連隊のツェーグラット大佐が指揮する小規模な縦隊は、第1縦隊と同じ方向のイン右岸に向けて行軍した。
 敵は下ガルダ近くの橋を破壊しており、連絡線のために橋は不可欠だったため、そこに小さな橋が架けられたが、4時間以内には完成しなかった。その間、敵の陣地が偵察され、攻撃のための布陣がなされた。彼らがこれらのことをしている間に、ベレガルデ中将は前衛部隊をガルダ前面に、主力を村の背後に配置した。前衛部隊は、ベレガルデ中将自身を含む縦隊同様、ハディック中将の指揮でクスへ向かう主要街道を前進した。2個大隊の増援を受けたツェーグラット大佐の部隊は、イン右岸を主力縦隊と同じ方角へ行軍した伯爵ロビルト将軍麾下の縦隊から離れた。
 2個の縦隊は直接ラヴィンへ行軍し、敵の前衛部隊を可能な限り早く退却せしめた。ラヴィン村は前衛部隊によって奪われた。しかし敵は村の背後で再集結し、さらなる頑強な交戦が行われたが、敵の側面を突くために山岳部へ送られた部隊によって我々の優位に終わった。
 ラヴィン背後の地形は騎兵の機動に適していたため、エルデディ連隊のユサール分遣隊が平地へ逃げ込んだ敵の歩兵を追うため前方へ送られた。この際に敵の准将ドゥモンが捕虜となった。
 我が軍は通行不能な山岳に道を開くことを余儀なくされ、打ち続く攻撃に妨害され、あらゆる場所で最も頑強な抵抗に出会った。しかし敵は、どのような場所に布陣しても両側面を脅かされ、クス村にもフロダ峡谷にもとどまれなかった。
 村はハディック中将の前衛部隊によって奪われ、同時に敵が予備部隊を再編した村を見下ろす高地も占拠された。双方とも活発な射撃を続け、そして突然敵が村に素早く襲い掛かったが、ゴルシェン擲弾兵連隊とアントワーヌ・エステルハージ第3連隊によって撃退された。
 擲弾兵が銃剣突撃をしている時に、ベレガルデ元帥[ママ]は縦隊にイン両岸を前進させ、敵にあまりにも勇敢に襲い掛かったため、敵は最大限の混乱のままツェルネッツへ逃走を余儀なくされた。
 敵の将軍ラ=クルブは退却の際に腕を負傷した。フランス軍の後衛部隊はすぐにはツェルネッツを放棄しなかったが、夜の間に退却した。そして彼らの最後の哨戒部隊は5月3日朝に上エンガディーヌへ退却した。彼らはツェルネッツ近くの橋に火をかけたが、下流の橋のみが破壊された。
 4月20日[ママ]と5月2日の2回の交戦における我々の損害はかなりのもので、ベレガルデ中将はすぐに正確な記録を伝えるつもりである。
A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8"http://books.google.com/books?id=dYfhdzYbIa0C" London Gazette, p202-206

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