承前。エル=アリシュ攻撃について。
戦報やJ, Christopher Heroldの"Bonaparte in Egypt"では、レイニエがエル=アリシュに到着した時点で「野営地にある敵の大軍のみならずよく守られた要塞まで発見し、驚愕した」(Herold, p268)と記している。つまり、守備隊も野戦軍も既にエル=アリシュにいたように読める。ところがNathan Schurの"Napoleon in the Holy Land"によれば、レイニエがエル=アリシュ村を奪った後に要塞包囲で手間取っている「遅れを利用して、南パレスチナに於けるジャザールの代理人であるアブダラ=パシャ率いる増援が、包囲されたエル=アリシュ守備隊救援のため東方から接近してきた」(Schur, p44)という。野戦軍は村が落ち、要塞が囲まれた後に増援としてやって来たのだ。
どちらが正しいのだろうか。ボナパルトの総裁政府への報告書では今一つはっきりしない。村が落ちた時に「敵前衛は全てエル=アリシュ要塞に閉じ込められた」が、「歩兵部隊に支援されたジャザール=パシャの騎兵は、我々の後方1リューの場所に布陣し、包囲軍を封鎖した」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième"http://books.google.com/books?id=glouAAAAMAAJ" p359)。彼の言う「歩兵に支援された騎兵」が現れたタイミングについての言及がないため、最初から野戦軍がいたのか、後から増援として現れたのか、判断できないのだ。
一方、東方軍公報やベルティエの本(いずれもボナパルトの意図を反映して書かれたものと思われる)になると、明確に「野戦軍は後から増援に来た」と記している。東方軍公報はレイニエがエル=アリシュを包囲したのと「同時に、エル=アリシュへの補給を企図した輸送隊を護衛してきた敵騎兵と歩兵の増援を発見した」(Les bulletins de la Grande Armée, Tome Deuxième"http://books.google.com/books?id=0zURAAAAYAAJ" p248)としている。ベルティエが書いているのもほぼ同じ内容だ(Mémoires du maréchal Berthier"http://books.google.co.jp/books?id=FK0sAAAAYAAJ" p44)。
ナポレオンのセント=ヘレナでの発言をまとめたGuerre d'Orient, II.."http://books.google.com/books?id=41MQAAAAYAAJ"は微妙に表現が異なり、まずエル=アリシュ村が陥落した時に「トルコ騎兵は後退し、エル=アリシュから半リューの距離に布陣した」(p30)。続いて「アブダラがガザから、8000の兵と伴にエル=アリシュ救援のため11日夕に到着した。彼らは騎兵の背後に位置した」(p30)となっている。野戦軍の中で騎兵は最初から戦場にいたが、歩兵は増援として11日(エル=アリシュ村陥落から2日後)にやって来たという説明だ。ただ、野戦軍の主力はやはり増援として到着しており、その意味ではSchurの説明と似ている。
ボナパルト以外で同じく「野戦軍は増援として到着した」と主張しているのがミオーだ。Mémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Egypte et en Syrie"http://books.google.co.jp/books?id=fquEaqKA9_IC"で彼は、村が落ちた後に「しかしながらカン=ユーヌに部隊を置いていたマムルークは、エル=アリシュの包囲を解くため大挙して戻ってきた」(p117)と記している。
実際にはボナパルトもミオーも、レイニエによる夜襲の後にエル=アリシュに到着しているため、野戦軍が到着したのがいつであるかを直に見ていた訳ではない。つまり彼らが書いているのは全て二次史料だと言える。ただ、シリア遠征の参加者が「野戦軍が増援としてやって来た」との認識を持っていたことは事実だろう。Heroldのように「最初からいた」と主張するならその論拠を示して欲しいところだが、残念ながら彼の本の該当部分には脚注などはない。改めてLa Jonquièreの本が読めないのが誠に残念である。
野営地にオスマン軍がやって来た時期がいつにせよ、その野営地に対する夜襲が行われたのが2月14―15日の夜間(雨月26―27日)であることは間違いない。そして、そこで主役を張ったのがクレベールではなくレイニエであることもまた事実だ。
ボナパルトの総裁政府への報告書では「クレベール将軍はレイニエ将軍と伴に機動した」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième, p359)と書かれており、両者が主役のように見える。しかしLes bulletins de la Grande Armée, Tome Deuxième(p248)やMémoires du maréchal Berthier(p44)では「レイニエ師団の一部が渓谷を迂回し、野営地に襲い掛かった」としており、襲撃した部隊の中にクレベールの名はない。そしてGuerre d'Orient, II.では「クレベール将軍は要塞の包囲を担当した」(p30)と記し、彼が夜襲に関与していないと指摘している。
実際にはクレベール師団のうちダマ将軍の旅団はオスマン軍野営地に対する正面からの陽動を担当していたようだ。だが同旅団の前進は遅れた。レイニエ師団と異なり、戦場に到着したばかりだった彼らは地形がよく分からず、夜間の移動に手間取ったようだ。結局、彼らが野営地にたどり着いた時には、迂回してきたレイニエ師団が既に野営地を占領済みだったという(Schur, p44-45)。やはりこの夜襲の栄誉はレイニエが担ったといっていいだろう。
この夜襲における両軍の損害について、漫画では「トルコ兵500を刺し、900を捕虜。こちらの損害は3名」と記している。戦報にあった「ベイとカチャフを含む五百名を殺害、九百名を捕虜とし、損害は僅かに三名だった」をそのまま引用したのだろう。Heroldも「戦死した400―500人の中には1人のベイと何人かのカシフが含まれていた。900人が捕虜となり、フランス軍は3人を失った」(p270)と、ほぼ同じことを書いている。
上記の数字は、ある一点を除いてGuerre d'Orient, II.の記述と一致している。「敵は戦場に400から500人の死者を残し、900人が捕虜となり、ラクダ全て、馬匹の大半、テントと荷物の全てを失った。(中略)レイニエの損害は僅かに戦死3人、負傷15から20人だけだった」(p32)。どうやらHeroldは元史料から書き写す時に最後の負傷者の部分を写し忘れたようだ。
また、Schurはオスマン軍の損害が大きすぎるとも指摘している。この数字の通りならオスマン軍はほとんど壊滅状態になった筈だが、実際には数日後にまたフランス軍と戦っており、とても壊滅状態だったとは思われないというのが理由。オスマン軍の損害について言及しているのがセント=ヘレナのナポレオンであることも、数字が信頼できない根拠になるだろう。ボナパルトの総裁政府への報告で「大半の[敵]兵は逃げ出す時間があった。何人かのイブラヒム=ベイのマムルークが捕虜となった」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième, p359)としか書かれていないところを見ても、この損害数はあまり鵜呑みにしない方が良さそうだ。
さらに、漫画ではすっぱり無視されてしまったが、エル=アリシュ要塞攻囲戦も行われた。戦報にあるように要塞攻略にはかなりの時間がかかってしまい、最終的には降伏勧告に守備隊が応じる格好でケリがついた。19日にボナパルトは守備隊に対し、バグダッドへの後退やジャザールに2度と与しないことなどを条件に降伏を勧告している(Schur, p179-180)。しかし、戦報にあるように「合意された条件を最初に破ったのは明らかにフランス軍自身だった」(p46)。彼らは守備隊の一部を彼らの意思に反してフランス軍に組み込んでしまったという。
ボナパルトの報告にも「マグレブ人は我々に雇われました。私は彼らを使って予備部隊を編成しました」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième, p360)とあるし、ミオーが「[守備隊の]一部は我が軍に入った。奇妙な出来事ではあるが、エジプトではよくあることだった」(Mémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Egypte et en Syrie, p120)と書いているのもこの話と平仄が合う。この兵たちはボナパルトの協定違反を受け、今やジャザールの部隊に合流しても問題ないと判断した。結果、エル=アリシュ守備隊の多くが再びボナパルトに対して抵抗することになり、それが後にボナパルトによる捕虜虐殺につながっていく、というのがSchurの説明だ。
以上、エル=アリシュの説明だけでえらく長くなってしまった。漫画の後半に当たるヤッファの戦いについてはもう少し簡単な説明で終わらせたいのだが、それはまた次回に。
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