年末年始が終了。これに伴い図書館で秋山の伝記"http://www.matuno.com/bookimage/44176.htm"に書かれた土城子戦ついて詳細に調べることができた。結論は、大体予想通り。「坂の上の雲」は、少なくとも土城子戦に関する限り、この本が主な(というか大半の)ネタ元である。問題は、ネタ元になったこの本の「信頼性」だ。
土城子に関する伝記の記述を見ると、とにかくあちこちに間違い、つまり秋山自身の戦闘詳報や陸軍の公刊戦史と異なる話が載っている。ざっと上げていくだけで以下の通りだ。
まず最初に発見した清国軍の兵力について「砲十門ばかりを有する約一旅団の敵兵」(p90)と書いている。秋山の詳報に書かれていた数「騎兵約五十歩兵約二百」とはけた違いの数字だ。歩兵200といえばせいぜい中隊規模。公刊に載っているこの戦闘に参加した清国軍の全歩兵「約五千余」なら旅団規模といっても構わないだろうが、それは増援全てを含む最終的な数字だし、しかも他の史料(秋山の詳報、川崎軍曹の日記など)に比べてかなり過大な数字であることは前にも指摘済みだ。
大砲の数にいたっては他のどんな史料にも見当たらない。公刊などは基本的に「二門」としているし、秋山も「二(三)門」だ。一体どこから十門なんて数字が出てきたのやら。ナポレオンは公報で敵の数を膨らませることを得意技にしていたが、その彼でも大砲を5倍に増やした例はあまりないのではなかろうか。
次に秋山が戦闘を決断した理由について伝記は「併し我が騎兵に取りては将来の士気に影響すべき極めて大切なる初陣である。敵を見て妄りに退却することは出来ない」(p90)と説明している。詳報が威力偵察、公刊が最初は威力偵察で後に遅滞戦闘へ目的が変わったと書いているのに対して、全く違う理由を持ち出している。もちろん秋山が心の中で部下の士気への影響を考えていた可能性はあるが、それを戦闘の理由に挙げているのは(私の知る限り)この伝記だけだ。
部隊の指揮官名も間違っている。一つは騎兵第一大隊第二中隊長で、伝記は「大尉山本米太郎」(p90)と書いているのだが、公刊などによると山本が指揮していたのは騎兵第六大隊第一中隊であり、第二中隊長は浅川敏靖大尉である。もう一つ間違えているのが中萬中尉で、伝記には「歩兵第三連隊中隊長中萬(徳二)中尉」と書かれているが、彼は中隊長でなく小隊長(川崎軍曹の日記)。第三連隊第三中隊長は佐土原祐吉大尉(公刊)だ。
秋山による最初の部隊配置も違っている。伝記では第一中隊を「本道東側に徒歩戦を以て」、第二中隊を「本道西側に乗馬戦を以て、それぞれ敵を攻撃せしめた」(p90)としているが、秋山の詳報では「騎兵第一大隊の第一中隊及第六大隊の第一中隊をして徒歩戦闘をなさしめ前衛なる第二中隊をして土城子に在て我右側を警戒せしめたり」としている。
浅川中隊を「予備隊」(p91)としているのも、他の史料と異なる。基本的に浅川中隊(第二中隊)は上にも記した通り「前衛」だ。予備とは全く逆の役割である。戦闘が始まった後に土城子から手馬の近くまで退かせた結果、予備的な位置を占めることになったに過ぎない。
最も問題なのが、河野(第一)中隊長に対して「敵放列[ママ]に対する大胆決死の襲撃の令を下した」(p92)場面だろう。これまで紹介した戦闘の経緯を読んでいる人なら、最初に浅川の第二中隊が右翼側で、その後に山本の第六大隊第一中隊が左翼側で突撃をしたことはご存知の筈。唯一、突撃をしていないのが河野の第一大隊第一中隊なのだ。それなのに伝記ではその中隊へ突撃命令が下ったことになっている。
伝記ではその後に「河野中隊に襲撃中止を令し」(p92)たと書いているので、この突撃は結局実施されなかったことが分かる。詳報や公刊戦史にこの突撃命令が記録されなかったのは、実際には突撃が行われなかったためで、命令自体は存在したのかもしれない。命令がなかったと断言することはできないし、従ってこれが嘘であると決め付けるのも無理。だが、存在があやふやな突撃命令を書き記している一方で実際に行われた第六大隊第一中隊の突撃が完全に伝記中で無視されているのはいかがなものだろう。
河野に突撃が命じられたときの清国軍の配置も妙だ。伝記では「勢を恃みたる敵は、砲火を中央に、歩兵を両翼に、一里余の戦線を掩うて潮の如く殺到し来り」(p92)とあるが、実際に清国軍の山砲が配備されたのは公刊などによれば「東北溝東南の丘阜」、つまり清国軍の右翼側である。
公刊などでは日本軍が山間堡東→下坎子→許家窯→双台溝西南高地と戦いながらじわじわ撤退した様子が描かれているが、そうした描写は伝記にはない。しばらく戦った後で「総退却を令するに至った」(p92)ことになっている。退却の際に「歩兵の退却を、さらに騎兵が掩護」(p92)という話も、他の史料とは異なる。公刊では歩兵が退却する際に「捜索騎兵も亦其両側に在りて退却す」としか書かれていない。
伝記によれば捜索騎兵の損害は「僅かに戦死卒一名、負傷浅川大尉外兵卒五名」(p93)となっている。これまた公刊の記録(戦死者1、負傷者士官1兵士4)とは微妙にずれている。これだけ細部の間違いが多い「伝記」というのも困り者だ。伝記が歴史資料になるかどうかについては色々な意見があるかもしれないが、少なくともこの「伝記」は史料としてはかなり使えない部類に入る。
どうして伝記の記述が他の史料と違っているのか、その理由は分からない。ただ「坂の上の雲」が、公刊戦史などではなくこの「伝記」にかなり寄りかかった記述になっているのは間違いないだろう。遭遇時の清国軍の兵力、秋山の部隊配置、秋山が戦場で酒を飲んでいたこと、増援に来た中隊長の名が中萬になっていること、河野への突撃命令とその取り消し、退却に際して秋山が最後方に位置した点など、描写が一致している部分は実に多い。
それだけではなく、伝記の中に引用されている「雑誌『日清戦争実記』」の記述も小説の中で使われている。秋山が通訳熊谷に向かって言った台詞は日清戦争実記では「少佐熊谷氏を顧みて曰く、咄敵兵何かあらん、我れは旅順に向うの命を受く、豈に敵の為に退くの命を領せんや、去らんと欲する者は去れ、只君は用あり、乞う倶に供に行け」(p94)と書かれており、稲垣が秋山を止める場面も「稲垣中尉(副官)駒を駆って来り、少佐の轡を叩いて極諫し、僅かに其突進を支えし」(p94)と描き出されている。
ここから後は私の妄想になる。小説「坂の上の雲」を書くに際し、作者は色々な史料を集めた。その中でも「伝記」は使えると考え、それを横に置きながら執筆を進めた。ところが実際に書いてみると、ほとんど伝記の記述に則ったような描写ばかりになる。小説家としてそれがいいと判断した結果だが、本人にとっては「事実(つまり伝記)に拘束されることが百パーセントにちかい」話になってしまったと感じられたのだろう。
もちろん、実際に「坂の上の雲」に書かれた土城子戦の描写は史実からは程遠い。にも関わらず作者が「事実に拘束」されていると感じたのは、作者が(無邪気にも)「伝記」の記述を事実と思ってしまったからだろう。無理もない。作者は小説家として小説の材料になる文献を探し、小説の材料としてその文献を読んでいたのだ。文献に書かれていることが史実かどうかを確認するために読んだのではない。史料批判することなく、伝記を事実だと思ったまま小説を書き進めたのだと思われる。
もし書き手が小説家ではなく歴史学者であり、書こうとしていたのも小説ではなく歴史書だったとすれば、秋山「伝記」は他の史料と比較検討され、信じがたいと思われた部分は容赦なく切り捨てられただろう。そうなればのっけから清国軍が1個旅団になることもないし、増援部隊の中隊長名が中萬になることもないし、河野大尉が突撃命令を受けることもないだろう。公刊戦史とあまり変わらない話が出来上がっていたと思われる。それが小説(つまりフィクション)として面白いかどうかは分からないが、史実としての正確性はより高くなっていたに違いない。
小説家は確かに「事実」に拘束されていると思いながら書いた。でもそれは「小説家がそう思っていた」ということでしかない。小説家による「事実」認定のやり方が実に甘く、穴だらけなのは確かだが、所詮専門家でない小説家のやることなのだからその程度の事態は想定されるべきだ。嘘をつくことを商売にしている小説家の言う「事実」なる言葉を素直に信用する方がナイーブに過ぎる。ケータイ小説の作者ですら「この話は事実です」と言いながら小説を書いているのだ。
もし「坂の上の雲」について批判をしたいのなら、それが史実と比べてどうこうなどと言う指摘をするよりもっといいやり方がある。「つまらん」と言えばいいのだ。小説なんだから秋山を浅川中隊による騎兵突撃の先頭に立たせろ。秋山が清国兵をばったばったと薙ぎ倒すシーンを入れろ。負傷した浅川を秋山が救い出す場面を思いっきり盛り上げて描き出せ。清国軍の兵力を5倍と言わず数十倍に膨らませろ。土城子戦で圧勝したように書け。必殺技を叫びながら旅順要塞を火の海に包んでしまえ。伝記通りの小説なんぞ面白くも何ともないだろうが。
コメント