土城子・一次史料2

 土城子戦について、一次史料と陸軍の戦史との比較を続ける。前回は秋山の記録を中心に調べてみた。次は菊地軍医部長の報告だ。そこでは「負傷者は将校二名、下士卒三十名、即死は将校一名、下士卒十一名、生死未詳二名」と記録されている。一方、公刊戦史では「死傷は戦死将校一名下士卒十名馬匹七負傷将校二名下士卒三十五名馬匹十」となっている。菊地の記録に比べて下士卒の死者が1人少なく、負傷者は五人多い。死者の人数が減っている点を見ると、菊地も全ての死者を自分の目で確認したわけではなさそうだ。
 負傷者のうち、浅川大尉の負傷部位について菊地と秋山の報告が食い違っていることは既に指摘済み。将校の死傷者については菊地が「負傷将校は騎兵第一大隊中隊長浅川敏靖歩兵第三連隊附中尉三谷仲之助即死将校は歩兵第三連隊附中尉中萬徳次なり」としており、公刊は「戦死将校一名歩兵中尉中萬徳次」「負傷将校二名歩兵中尉三谷仲之助騎兵大尉浅川敏靖」となっている。時々、中萬中尉の名前を「徳二」と記している事例が見られるが、少なくとも一次史料を見る限りは「徳次」の方が正しそうだ。

 最後に歩兵第三連隊第三中隊所属の川崎栄助軍曹の日記だ。塩島仁吉編「日清戦史」や川崎三郎著の「日清戦史」に抄録されているこの記録には、実はかなり草案や公刊と異なる話が載っている。
 まず、出発前に与えられた任務だが、川崎軍曹によれば「第三中隊は前兵[前衛]に任ぜらる、其任務は本隊の双台溝にある高地に防御陣地を選定し、及び騎兵二個中隊の土城子迄帰るを援護するにあり」となっている。川崎の認識では、第三中隊は出発前から騎兵部隊の援護を任されていた、ということになるのだ。一方、草案や公刊によれば秋山の要請は歩兵部隊が双台溝に到着した時のこととされている。いきなり話が違っている。
 歩兵が営城子供を出発した時刻について川崎は「午前七時四十分」としており、公刊などに書かれた「午前八時」より早い。しかも「騎兵二個中隊前衛其後方凡そ六百米突を進行せり」と書いており、騎兵の動きを目で見ながら移動していたように思える。そして双台溝に達した後で「我中隊は其任務を果す為め、進で土城子に向」かったと記している。あくまで騎兵支援が当初からの狙いだったと読める。
 土城子に向かって「凡そ三千米突許りを進みし頃、騎兵の報告に接したり、曰く敵騎兵五十、歩兵五百許り、土城子にあり」。草案では中隊が前進したのは「約二千五百米突程前進」だったので、そこは微妙に違う。一方、騎兵の報告に接したという部分は草案や公刊と同じ。敵の数は、秋山が午前11時頃の数字として報告しているものとほぼ一致している。歩兵が「背嚢を卸し、軽装して前進」したという話も草案・公刊と同じだ。
 川崎によれば土城子戦の時間経過は「八時頃敵兵漸く増加して(中略)土城子の村落に達したり」「戦闘開始は、十一時四十分頃にして此時[淺川中隊が突撃した時]既に午後零時半頃なり」となる。だが、これは他の史料と大きくずれている。まず秋山が土城子に達したのは午前十時頃。「八時頃敵兵漸く増加」した場面など、日本側は誰も見ていなかっただろうし、午前8時の時点で清国軍が「土城子の村落に達し」ていたのなら、秋山が前衛だった第二中隊を土城子に配置することも無理だっただろう。
 本格的な戦闘が始まったのは、秋山の西少将への報告によれば午前11時に敵の歩兵が500に達した時であり、詳報でもその時点で清国軍が前進してきたとしている。さらに11時半には丸井少佐の歩兵大隊も戦場に到着している。川崎は戦闘開始を「十一時四十分頃」とし、淺川中隊の突撃を「午後零時半」としているが、これはあまりにもタイムテーブルが遅すぎだ。
 さらに戦場に到着した「我中隊土城子の村落に進みて、敵状を察する」ともあるが、草案や公刊によれば歩兵第三中隊は下坎子付近に展開して清国軍と交戦した筈であり、とても土城子まで前進することはできなかったと思われる。
 川崎によれば第三中隊はすぐ清国軍に圧倒され「其勢衆寡敵し難きものあり、我が中隊長[佐土原大尉]亦残念にも『退却』の命令を伝えたり」。この第三中隊の退却について草案は「歩兵第三中隊は勢い支え難く退きて許家窯の西端に拠り」、公刊も「因て第三中隊は退て許家窯の南端に拠り」と記している。
 他の史料では名前しか出てこない士官ただ一人の死者である中萬中尉の最期について、川崎は詳細に記している。「七八百米突の後方第一小隊の退却点迄退却せしに、小隊長中萬中尉は、二箇の砲丸胸部を貫きてドット其の場に斃れたり予は其傍に馳せ付けて其死体に取り縋がり小隊長々々々と続けさまに呼びたるも、中尉は早や落命して答なし」。菊池軍医部長の報告にあったように、文字通りの「即死」だったようだ。
 第三中隊が退却を続けていたところに「折能くも第四中隊の援隊来れり、故に第四中隊も直に散開して敵を防御せり」。この部分について草案は「歩兵第二中隊を歩兵第三中隊の左側に展開」、公刊も「第二中隊を其[第三中隊]左方に展開」としており、第三中隊の近くにいた部隊が第四中隊ではなかったことを示唆している。清国軍が砲列を敷いた場所についても、川崎は「砲を土城子の高地に引き上げ、猛烈に発射せり」と記しており、草案や公刊の「東北溝東南の丘阜」とは異なっている。
 前衛本隊が到着したところについて、川崎は「此時第二大隊、第三大隊の二箇中隊山砲兵二箇中隊戦線に到着す、故に第二大隊は、敵の右翼を攻撃するの任務を以て前進したるに、敵は我軍の多きに驚き直に土城子に退却せり」と記している。草案や公刊が第二、第三大隊両方の名前を載せている(草案に至っては第三大隊こそが第一線だったとしている)のとは、これまた微妙に違っている。
 最期に清国軍の兵力についてだが、川崎は(戦闘の途中段階における数字のように読めるが)「敵の歩兵凡そ三千人、騎兵七八百騎」と記している。公刊の「歩兵約五千余、騎兵約百、山砲二門」とも、秋山の記した詳報の「歩兵約二千、騎兵約三百、山砲二(三)門」とも違う。清国軍の戦力については、史料間のずれがあまりにも大きい。

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