土城子・一次史料1


 上図はアジア歴史資料センターから。

 前回は陸軍の公刊戦史や草案に基づいて土城子戦の経緯を紹介した。ただし、これはあくまで「陸軍のまとめた戦史」であって、一次史料そのものではない。そして、実際に一次史料と引き比べると、実は「陸軍の戦史」との間で一致しない記述が結構あるのだ。今回はそのあたりを紹介しよう。
 私が発見した一次史料は、前にも述べたがアジア歴史資料センター"http://www.jacar.go.jp/"のサイトで見ることができる「戦闘詳報第2号附録 捜索騎兵隊戦闘詳報第1号」と「土城子附近戦闘詳報略図」、菊地軍医部長の記した死傷報告がある。また、近代デジタルライブラリー"http://kindai.ndl.go.jp/"に収録されている塩島仁吉編の「日戰史 第五卷」には、歩兵第三連隊第三中隊所属の川崎栄助軍曹が記した手記が収録されている。さらに公刊戦史の中に、西少将が18日午後1時に受け取った秋山からの戦闘報告も引用されている。
 以上が私の見つけた一次史料である。残念なことに、例えば歩兵第三連隊の丸井少佐に関連する史料などが存在しないし、おそらく公刊戦史の著者が使った一次史料より圧倒的に量が少ないだろう。従ってこれから書くことも実際には的外れである可能性がある。だからと言って公刊戦史を鵜呑みにしていたのでは話が進まない。とにかく手元にある材料で調べてみよう。

 まず秋山による西少将宛の報告だ。もっともリアルタイム性が高い史料なのだが、公刊に載っているものと草案で引用されているものとでは微妙に記述が異なる。最もオリジナルに近い可能性がある草案(手書きなので修正跡も確認できる)の修正前の文言は以下の通りだ。「午前十一時土城子南方に敵の騎兵約五十騎歩兵約五百を見る我捜索騎兵は之れと応戦し十一時三十分丸井少佐の大隊来援し目下戦闘中十二時敵は土城子の西南方に於て砲兵火を開く」
 以上を公刊戦史や草案と比較してみよう。まず「午前十一時」の部分だが、草案では(修正前で)全く同じ午前十一時と記されているが、公刊は「十時四十分頃」となっている。兵力のうち「敵の騎兵約五十騎」の部分は草案、公刊とも同じ。歩兵約五百については草案、公刊とも「五六百」となっている。
 丸井少佐の大隊来援時刻は、草案が修正前で「午前十一時十分」、修正後で「午前十一時三十分頃」となっている(三十分ではなく五十分かもしれないが、字が潰れているので確認は困難)。公刊は「十一時三十分頃」で、こちらは大体一次史料と一致していると見ていいだろう。
 清国軍が砲撃を始めた時刻「十二時」については、草案も公刊も「正午」。ただ、場所については草案・公刊とも「東北溝東南の丘阜」としている。東北溝は土城子の東北東にあり、秋山の報告にあるような「西南方」ではない。

 次に秋山の戦闘詳報を見てみよう。まず営城子を出発した時間は「午前七時」でいずれの史料も一致している。土城子に達した時間は詳報と草案が「午前十時稍々過ぎ」となっているが公刊は「十時頃」だ。この時、土城子南方の高地にあった清国軍の数はいずれも「騎兵約五十歩兵約二百」となっている(正確には、詳報は騎兵五千と書いた上で五十に修正している)。このあたりまではどの史料も基本的に一致している。
 清国軍と交戦を決意した理由について、詳報では「必ず優勢なる部隊の潜伏を察しその兵力を確認せん為め先づ戦闘を交え以て彼をして悉く展開せしむることを計れり」と記している。草案・公刊も基本的に同じことを書いていると見ていいだろう。ただ、実際に攻撃が始まった段階で草案が「秋山少佐は敵の意必ず双台溝西南高地脈を占領するに在ると察し」、公刊が「少佐以為らく敵は双台溝西南の高地脈を占領せんと欲するものならん」と記している部分については、詳報には見当たらない。
 最初の部隊展開について、詳報は「騎兵第一大隊の第一中隊及第六大隊の第一中隊をして徒歩戦闘をなさしめ前衛なる第二中隊をして土城子に在て我右側を警戒せしめたり」としている。これが草案になると第二中隊の警戒する方向が「右側前」となり、公刊では「前面」になる。おそらく陸軍の戦史編纂担当者は、本隊と前衛の位置関係を考えて「右側を警戒」との表現は辻褄に合わないと判断したのだろう。ただ、秋山が記した「土城子附近戦闘詳報略図」を見ると「右側」との表現も決して矛盾している訳ではないように見える。
 午前十一時に清国軍の歩兵は「五六百に達す」。上に乗せた西少将への報告では五百になっていたが、その後で記したこの詳報では秋山は数字を微妙に変化させたようだ。この清国軍が前進してきたのを受け、秋山は「第二中隊に背進を命じ手馬の傍に来り手馬及び散兵の右側を警戒」(詳報)させた。この部分については草案・公刊も同じ事を記している。続いて日本軍の右側に清国軍が「騎兵約五十歩兵約五百」と投じてきた、という部分も各史料で一致している。
 この時、秋山は「我散兵は正面及び右側よりの敵火甚しく集中するを以て乗馬を命じ背進の準備を為し」た。つまり馬に乗ってとっとと後退する準備をしようとしたのである。だが、この記述は草案でも公刊でも無視されている。草案では「必死防戦したり」「弾薬盡るに垂んとし」、公刊では「殊死して防戦す」「我弾薬は既に盡るに垂」などと記し、逃げるのではなく死に物狂いで抵抗していたかのように描いている。
 続いて騎兵にとってこの戦いのクライマックスとも言うべき浅川中隊の突撃が行われる。詳報ではこの突撃について「土地の凸凹と敵火の猛烈なる為め此突撃は最も困難たり殊に此中隊は当時僅かに長以下二十余騎に過ぎざりし然れども死傷の数は比較的に僅少なりし所以は敵の之が為めに躊躇したること甚しきに依る」と記述している。あまり恰好いい突撃ではない。草案や公刊がどう記述しているかについては以前に紹介済みだが、なぜかどちらも中隊の数を「三十余騎」としている。
 浅川中隊が突撃を終えて北方へ下がった後で「大隊は乗馬の後左側に行進」した。その理由について秋山は「蓋し右縦隊前兵[前衛]の先頭小隊[ママ]は以上苦戦を救脱せん為め手馬を去る約八百米突の地に到着せしを以て正面を之に譲り左側に行進し敵の左翼よるする攻撃を支障せんことを企てり」と説明している。この部分、草案や公刊と比較すると前半は必ずしも一致してはいない。詳報に書かれていない「秋山の要請」という話が、草案・公刊には収録されているのだ。
 草案によれば「此時[歩兵第三連隊第一大隊が双台溝西南高地に到着した時]丸井少佐に捜索騎兵隊長秋山少佐より捜索騎兵隊は土城子より右折して迂回し旅順方向に進み捜索せんとするが故に之が支援の為め歩兵隊の差遣せんことの請求に接したるが故に丸井少佐は乃ち之に応じ歩兵第三中隊を土城子に向て派遣したり而して此中隊の約二千五百米突程前進するや秋山少佐より求援に接したり」とある。秋山の「請求」に応じて派出した歩兵中隊が途中で「求援」を受けてやって来たことになっている。
 公刊でも「而して其双台溝に達する頃秋山少佐の請求(捜索騎兵土城子に向い前進の途中秋山少佐は土城子より右折して旅順口方向に進み敵情を捜索せん為め其支援として歩兵部隊の差遣を請求したり)に応じ歩兵第三中隊を捜索騎兵の支援として土城子に急派せりこの中隊前進して長嶺子の西方に到るや恰も捜索騎兵の危急なる報に接せり」と、秋山の「請求」及び「捜索騎兵の危急なる報」に接して歩兵部隊が差し遣わされている。
 一方、歩兵の来援後に騎兵が左翼へ動いた狙いについては、基本的にどの史料も同じ。草案では「秋山少佐の率いる捜索騎兵隊の首力は其左側を警戒」、公刊も「首力を以て左側を警戒」としている。さらに草案と公刊では騎兵の一部が右側に残ったことも記している。
 左に移った秋山の前に「午前十一時五十分敵の騎兵約三十騎を先頭とし歩兵約五百砲兵(山砲ならん)二三門西嶺子の南方高地に現出」した。この敵兵力については草案・公刊とも「歩、騎兵約八百、山砲二門」としており、秋山の詳報とはかなり数が違う。第六大隊第一中隊による突撃も、詳報では「敵の騎兵を高地外に駆逐せり」となっているのに対し、草案と公刊では「先頭に在りし騎兵約五十」を「襲撃し其三騎を斬り其他を駆逐したり」となっている。やはり清国軍の数が違う。
 浅川大尉の負傷について詳報には「左腕に重傷を負えり」と書いてあるように見える。草案や公刊には負傷の内容まで触れていないものの、菊地軍医部長の報告に「右前膊貫通銃創」とあったことは既に指摘済み。秋山と菊地とで負傷の部位が違っているのだが、ここは医者の言うことの方が正しい可能性が高いだろう。
 秋山の戦闘詳報で最も衝撃的なのは、最後の部分だ。彼はそこで「本日敵の展開したる兵力は歩兵約二千、騎兵約三百、山砲二(三)門」と記している。これが公刊になると「歩兵約五千余、騎兵約百、山砲二門」となる。砲兵についてはほとんど同じだが、騎兵は随分違うし歩兵に至っては全く違う。秋山の報告通りなら清国軍の数は公刊戦史に書かれているものの半分以下だったことになるのだ。いくら何でも差がありすぎる。

 長くなったので、以下次回。

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