日清戦争については陸軍がまとめた「明治二十七八年日清戦史」という公刊戦史が存在する。さらに実際に出版物がまとめられる前段階としてかかれた「草案」が存在し、福島県立図書館に残っている。土城子の戦いについては、どちらもネット上で内容を確認することが可能だ。
公刊戦史と草案との間には、かなり違う部分もあるそうだ。だが、土城子の戦いに関する部分を見る限り、ほとんど同じと言っていい。もちろん、微妙に違う部分はいくつもあるし、中には色々と議論を呼びそうなところもないではない。しかし、大きな流れについてはほとんど同じ。どうやら陸軍はこの戦いの経緯についてほぼ固まった認識を持っていたと見てよさそうだ。
なお、以下の文章を読む際にはこちらのサイト"http://ww1.m78.com/sib/dojoshi.html"にある地図(元はおそらく公刊戦史のもの)を参照しながらの方が分かりやすいだろう。
秋山の捜索騎兵隊が営城子を出発したのは18日午前7時。その際に騎兵第一大隊第二中隊が前衛となり、同大隊第一中隊と第六大隊第一中隊が本隊を構成していた。本隊が土城子北方にある山間堡近くに到着したのは「十時頃」(公刊)または「午前十時稍々過ぎ」(草案)だった。
この時、秋山は土城子南方の高地に清国軍の騎兵約50、歩兵約200がいるのを発見する。そこでまず秋山がやったのは前衛の第二中隊を土城子に置き、本隊を山間堡の東部に徒歩散開させたことだ。その狙いについて公刊は「全兵力を展開せしめんと欲し」としか記していないが、草案は「其兵力必ず微弱にあらざるを察し尚其兵力を展開せしめて之を偵察する為め」と説明している。要するに威力偵察を試みたのである。
しかし清国軍は次第に兵力を増し、「十時四十分頃」(公刊)または「午前十一時頃」(草案)500―600の歩兵で前進してきた。秋山は土城子に突出した恰好になっていた第二中隊を手馬の近く、つまり徒歩展開した本隊の乗馬を集めていた場所付近まで後退させた。また、草案によると「前衛司令官[西少将]に此戦況を通報」している。秋山は清国軍の前進について、双台溝西南高地を占領するのが目的だと推測。味方の第一師団前衛がその高地を占領するための時間を稼ぐ必要があると考えていた。
第二中隊の後退後、清国軍はその左翼に騎兵約50、歩兵約500を増やして「射撃することなく前進」(草案)してきた。清国軍の正面は土城子東北端に達し、左翼は蒋家屯を占領。さらに「自余の兵は付家旬子に前進」(公刊)したという。全体に日本軍の「右翼を包擁せんとする勢い」(草案)で迫ってきたようだ。公刊によれば「前面二三百米突に逼迫」、草案では「正面より来るものは殆んど百米突に接近し右側より来るものは蒋家屯と山間堡との間なる樹林に達し将に手馬に迫らんとす」と記されている。
「午前十一時頃」(公刊)、騎兵の弾薬は公刊によれば「既に盡るにたる」、草案によれば「盡るにたらんと」する状態だった。秋山は徒歩散開していなかった第二中隊の浅川中隊長に、右側から迫る清国軍への襲撃を命じる。この中隊はあちこちに斥候を出していたため、当時僅かに三十余騎しかいなかったが、それでも命令に従い突撃した。
公刊によればこの突撃で「先づ敵の騎兵を駆逐し次に敵の歩兵線の左側を衝き之をして頗る擾乱せしめ一時その前進を躊躇せしめたり」となる。一方、草案では「先づ付家旬子にに進み来れる敵の騎兵を駆逐し次ぎに敵の歩兵線の左側を衝けり然れども衆寡相敵せずして之に依て敵を撃退すること能わず只一時敵の内部に非常の混雑を起さしめ之をして暫時近迫を躊躇せしめたる効力ありしのみ」となっている。浅川大尉の突撃に対する評価は公刊の方が明らかに甘い、というか草案は厳しい。
突撃の際に浅川大尉は負傷し、馬を失った。部下の木村二等兵が自らの馬を大尉に譲り、福沢軍曹と一緒に浅川を助けて退却している。草案によれば「途中一弾来て木村二等卒の腹部を貫き此を戦没せしめたり」。公刊によれば騎兵の戦死者はただ一人なので、この木村二等兵こそがその唯一の死者ということになる。残った部隊は嘉悦中尉が指揮して北方へ退却した。
この時、歩兵第三連隊第三中隊が戦場に駆けつけるのだが、その表現が公刊と草案で微妙に違う。公刊は「偶々歩兵第三連隊第三中隊来て騎兵の散兵線の右側後に散開」としているが、草案は「恰も好し此時歩兵第三連隊第三中隊進んで下坎子に到着」となっている。草案の「恰も好し此時」が公刊では「偶々」に書き換えられた恰好だが、実際には第三中隊は「たまたま」やって来たわけではない。秋山に呼ばれて来たのだ。
公刊自体にも書かれているのだが、秋山は戦闘開始前に第三連隊などを指揮する丸井少佐に「歩兵部隊の差遣を請求」している。丸井はこれに応じて9時50分ごろ「歩兵第三中隊を捜索騎兵の支援として土城子に急派」した。この中隊は「長嶺子の西方に到るや」(公刊)または「約二千五百米突程前進するや」(草案)秋山からの「求援」(草案)に接し、その場に背嚢を置いて弾薬だけ持って「馳せて」(公刊・草案)下坎子へとやって来たのである。
歩兵の「援助を借り騎兵両中隊は始めて退却するを得」(公刊)た。公刊によれば彼らは「乗馬して歩兵線の左側後を警戒」したという。一方、草案では周家屯方向から日本軍の左側背へ向かう清国軍の歩、騎兵800と山砲2門を見て秋山が「徒歩散開せる騎兵両中隊を下坎子に拠る歩兵隊の左側に退け」たとあり、公刊にある「乗馬して」の文字が見当たらない。ただ、秋山の戦闘詳報自体には「大隊は乗馬の後左側に行進せり」とあるので、公刊の記述の方が正確だろう。
歩兵が騎兵に代わって正面の敵を引き受けるようになった結果、今度は歩兵第三中隊が清国軍に包囲されそうになった。周家屯方向から来た清国軍は「東北溝方向より」(公刊)日本軍の左側に迫った。日本側は歩兵第三中隊が許家窯の南端(公刊)または西端(草案)に拠り、騎兵は第一大隊第二中隊が歩兵の「右側を警戒」(草案)する一方、秋山直率の主力(おそらく第一大隊第一中隊と第六大隊第一中隊)は歩兵の左側にいた。
この時、周家屯から来た清国軍の先頭にいた騎兵50騎が洪家屯東の窪地から日本軍の退路に迫った。これを見た秋山は第六大隊第一中隊(山本大尉)に襲撃を命じている。同中隊は清国軍騎兵のうち3騎を斬り残りを駆逐した。
時刻は11時30分ごろになっていた。この時、戦場に丸井少佐が歩兵第三連隊の第二、第四中隊を率いて駆けつける。草案によると彼は前日、前衛司令官の西少将から双台溝西南の高地に露営しその南方高地を占領するよう命じられており、18日午前8時に歩兵第三連隊第一大隊と工兵第一大隊第一中隊を率いて営城子を出発。公刊によれば9時50分ごろに双台溝西南高地を占拠した。この時、秋山の要請に応じて第三中隊を派出した件については既に述べている。
「午前十時三十分」(草案)または「十時五十分頃」(公刊)、双台溝西南高地から捜索騎兵隊と第三中隊の苦戦ぶりを見ていた丸井は、麾下の第一中隊と工兵部隊のみを陣地に残し、第二と第四中隊を率いて彼らを救援するため前進した。戦場にたどり着いた彼は第二中隊を第三中隊の左に展開し、第四中隊を左側から来る敵に当てるようにした。戦闘は一段と激しくなり、両軍の被害も膨らんだ。
正午、清国軍の砲兵2門(おそらく周家屯から来た部隊)が東北溝東南の丘に現れて射撃を始めた。丸井はここに至って双台溝西南高地への退却を決断、まず第三中隊、続いて第二、第四中隊の順番で後退を始める。騎兵も「亦其両側に在りて退却」(公刊)した。
この時、歩兵第三連隊第一大隊の坂井副官が「長嶺子の西方附近に達したる時敵兵我左側を包囲せんとするの状を望見」(公刊)した。彼は双台溝西南高地に残っている第一中隊に対し、独断で「低地を前進し敵の右翼砲兵に向けて攻撃すべき」(公刊)と命令、または「敵の歩、砲兵を側撃すべき」(草案)と勧誘した。第一中隊はこの命令または勧誘に従って高地を降りて前進し、長嶺子の西端で敵を側撃して味方の退却を助けた。
「午後一時三十分頃」(公刊)または「午後一時五十分頃」(草案)、日本側の各部隊は無事に高地まで下がり、第一中隊も戻って陣の左翼を占めた。草案によれば丸井は第4中隊を工兵の右側高地に、第三を左側に展開し、第二を後方本道上に置いて予備とした。清国軍は2000メートルの距離まで迫ったがそこで動きを止めたという。
この日、前衛部隊司令官の西少将は午前7時30分頃に宿営地を出発した。前衛本隊の出発は9時30分ごろ。西少将は11時には双台溝西南高地に到着して捜索騎兵隊などが苦戦しているのを知り、前衛本隊に急いで前進するよう命じる。この本隊が双台溝西南高地に到着したのが午後2時ごろだった。本隊の増援到着を受けて西少将は攻勢を決断。木村中佐に攻撃を命じる。
木村は歩兵第二、第三大隊を率いて敵の右側を攻撃することを決断。草案によると「第三大隊を第一線とし第二大隊を第二線とし旅順街道の左方より前進」したが、清国軍は既に退却を始めていた。日本軍は土城子まで追撃したが及ばず。西少将は歩兵による攻撃を諦め、騎兵第一大隊第一中隊の半小隊を追撃にあてた。
以上が公刊戦史や草案に基づいた土城子戦の推移である。ここで手元に「坂の上の雲」を持っている人がいれば見比べてもらいたい。細かい部分がかなり違っていることが分かるだろう。公刊戦史はおそらく作者が入手可能だったと思われる基礎的史料の一つだが、彼が執筆の際に公刊戦史の記述にこだわった様子はあまりない。作者が書こうとしていたのは歴史書ではなく小説だったから、であろう。
コメント
No title
9月27日~10月11日とイギリス旅行に行ってきましたが、首を痛めてしまい、PCを長時間いじくっておれず、自分のブログもろくに更新できない有様です。
スコットランドでは、牧場に白い馬がおり、スコッツ・グレイズの騎馬ではないかと質問しましたが、この地方で伝統的に飼われている馬で、鹿狩りなどに使われるそうです。
ロンドンでは、Apsley HouseとNational Army Museumに行きました。また、日帰りでパリに行き、ネイ元帥の銅像を拝み、アンヴァリッドでエコール・ポリテクニックの生徒がパレードをやっていたので、見ようとして近づいたら、警備に当たっていた女性憲兵から注意されました。
2009/12/30 URL 編集
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2009/12/30 URL 編集
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ところが、その後出版された何冊かの好古の伝記では、この点がそのまま引用されています。これについては、司馬本の丸写しではなく、著者独自の調査を期待したいところです。
現在も書店で多数の関連本が平積みになっていますが、どうせなら“騎兵”とはいかなるものか、一般人にもわかりやすく突っ込んだ本が出てほしいものです(もちろん、それがきっかけで、西洋戦史本が続々と世に出れば嬉しいのですが…)。
2009/12/31 URL 編集
No title
先行研究を利用するのは別に悪いことではないと思いますが、伝記を書く際に小説を参考にするのはアウトでしょう。ナポレオンのロシア遠征を描くのに「戦争と平和」の記述を何の批判もせず引っ張ってくるようなものです。もちろん、現実にはそういう本が多いことはいやと言うほど思い知らされていますし、だからこそこんな話"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/46538584.html"を書いたりしているのですが。
Apsley HouseとNAMに行かれたのですね。いかがでしたでしょうか。特にNAMはじっくり時間をかけて見るかいのある場所だと思います。
2009/12/31 URL 編集