土城子の戦い

 NHKでドラマ「坂の上の雲」の第一部が放送された。今年の分は5話のみで、今後3年かけて計13話を流すのだとか。視聴者側にとっては分けてやる意味は全くないのだが、どうやら予算の関係でこうなるらしい。どんだけカネをかけているのやら。
 実際に見てみると確かにカネがかかっている。何しろ森本レオが名無しの端役で出てくるくらいだ。最初に見た時は「えらく森本レオに似ているが、こんなちょい役で出てくる筈はない」と思ったのだが、見れば見るほど森本レオ以外の何者でもない。そしてエンディングのスタッフロールを見ると間違いなく「森本レオ」の名が。いやーほんとどうでもいい部分までカネかけてるわ、この作品。
 ドラマとしての評価は人それぞれだろう。そもそもフィクションなんて主観でしか評価できないし、従って人によって評価が違うのは当たり前。同じことは原作の小説についても言える。あえて客観的な評価を求めるのなら視聴率を見るくらいしか手はないが、今年の分は17―20%の範囲で推移していたようで、平均20%を超えていた大河ドラマには負けている。コストパフォーマンスは悪いドラマだったといわざるを得ない。

 さて「坂の上の雲」の背景となっている史実の方はどうだったのか、それを少し調べてみる。具体的には4回目で出てきた日清戦争の場面。秋山兄がドンパチやっていたシーンだが、どうやらあれは旅順近くの土城子というところで行われた戦いのようだ。1894年11月18日のことである。
 この土城子戦について書かれている出版物としては、近代デジタルライブラリー"http://kindai.ndl.go.jp/"に収録されている陸軍の公刊戦史である「明治二十七八年日清戰史 第三卷」、民間でまとめられた通史である川崎三郎著の「日清戰史 巻四」、その川崎が参考にした可能性がある塩島仁吉編の「日戰史 第五卷」、史実というより講談調である服部誠一著の「通俗征清戰記」などがある。
 出版物以外に、公刊戦史を出版する前の叩き台となり、公刊戦史とはかなり異なることが書かれているという日清戦史草案なるものがある。福島県立図書館にその草案が残っており、幸いにもこの土城子の戦いを含めた旅順攻撃に関する部分が同図書館のサイトで閲覧可能だ"http://www.library.fks.ed.jp/ippan/degital/degital_lib_next.html"。「第十二篇第四十八章第三草按」の7から9にかけて、土城子戦に関する記述がある。
 アジア歴史資料センター"http://www.jacar.go.jp/"も使える。国立公文書館など文字通りの一次史料を閲覧できるようにしているサイトで、そのうち防衛研究所が所蔵する陸軍関連史料の中に土城子戦について秋山が記した報告書「戦闘詳報第2号附録 捜索騎兵隊戦闘詳報第1号」と「土城子附近戦闘詳報略図」、また第1師団菊地軍医部長の記した死傷報告などがある。これらはナマの史料であり、史実を知るうえで非常に価値が高い(全面的に信じられる、という意味ではない)。
 他に秋山好古に関しては戦前に伝記もまとめられていたようだ。こちらのサイト"http://www.matuno.com/bookimage/44176.htm"に復刻版が紹介されているが、これまた好都合なことにそこにある内容見本(pdfファイル)がまたもや土城子戦の一場面を引用している。公式記録などに載っていないことについて関係者の回想を紹介しているようなので、これもまた参考になるだろう。それにしてもちょっとネットを探しただけでこれだけの史料が見つかるとは、「坂の上の雲」効果おそるべし。
 以上の史料を元に、ドラマと史実とを比べてみよう。なお、これは別に「史実に反しているからドラマはおかしい」などと主張したいがための試みではない。何度も言うがドラマはフィクションであり嘘八百である。史実と違っていても何の問題もないし、違っていて当たり前だ。ただ、このドラマに関しては時々「史実と異なっているからいけない」と本気で主張している人がいる。一体なにをどうしたらそんな素っ頓狂な主張が出てくるのか私には理解できない。

 さて、ドラマでは清国軍と遭遇したところで徒歩の兵士たちが地面に伏せて銃を構える場面から戦闘シーンが始まる。ここで史実を知らず、ドラマだけ見ている人の中には違和感を覚えた向きもあるだろう。秋山は騎兵部隊を指揮している筈なのに、何で歩兵が戦っているんだ?
 結論から言うと、ここで地べたに這いつくばっている連中は歩兵ではなく騎兵だ。なぜ騎兵なのに歩いているのかというと、おそらく秋山がそう命じたから。秋山名で書かれた「捜索騎兵隊戦闘詳報第1号」に「依て騎兵第一大隊の第一中隊及第六大隊の第一中隊をして徒歩戦闘をなさしめ」(以下、引用はすべて新漢字、平仮名に修正する)とあるのがその証拠だ。要するに「馬から下りて歩いて戦え」と命じられ、その通りにしたのである。
 軍服を見ても、彼らは騎兵であると想像できる。正直私は軍服にはあまり詳しくないので断言はできないのだが、wikipediaの軍服 (大日本帝国陸軍)の項目を見ると、紹介されている図版で騎兵は赤いズボンを穿き、背嚢を背負った歩兵は上着と同じ紺色(実際は黒く見えたようだ)のズボンを穿いている。兵科ごとの袴の色を記した表でも、騎兵が「茜絨」とあるのに対し、歩兵下副官は「紺絨」だ。ドラマで徒歩で戦っていた連中のズボンが赤かったのは、彼らが騎兵であることを示している。
 接近してきた清軍の兵士は歩兵と騎兵が混在していたが、これは史実のようだ。秋山の報告によれば最初に発見した敵は「騎兵約五十歩兵約二百」である。またナポレオン時代から引っ張り出したような大砲が2門、姿を見せていたが、秋山の報告に「砲兵(山砲ならん)二三門」という記述もあるので、それを反映したものかもしれない。ただし、時系列的に言えば両軍の接触直後から大砲が出てくるのは史実とは違う。
 秋山が戦闘中に酒を飲んでいたのは、彼の伝記によれば事実のようだ。そこには「敵弾炸裂、砂煙渦巻く間に立って、水筒の酒を傾けつつ戦況を眺めたる秋山大隊長」という表現が出てくる。また、彼が部下の制止を振り切って最前線へ出たのも事実のようで、これまた伝記に「副官等の留むるを聞かず、我が兵伏姿の前方に馬を進め、平然として戦を督した」と書かれている。部下の中に稲垣と呼ばれている人物がいたが、伝記には副官の名が「稲垣(三郎)中尉」と記されている。
 とまあここまでは史実を反映した部分。続いて史実かどうか分からない部分だ。ドラマの秋山は「一人でも旅順へ行くぞ」と見得を切ったり、「あっしが殿を務める」と言い放つなど、えらく格好良く描かれている。しかし、これを裏付ける史料は見つけられなかった。何しろ講談調の「通俗征清戦記」にすら見当たらないのだ。ただ、ネットにはこの話を紹介しているサイトもある。おそらく秋山の伝記中にそういった記述があるのだろうと想像されるのだが、残念ながら確認はできない。
 そして以下は史実を無視した部分となる。まずは戦闘中、部下に命令を出していた士官が頭部を撃たれて倒れる場面。部下が「中隊長」と言って駆け寄っていたが、実はこの戦闘で死んだ騎兵士官はいないし、頭部に負傷した者もいない。菊地軍医部長の死傷報告によれば騎兵士官の負傷者はただ一人、騎兵第一大隊中隊長浅川敏靖だけだが、彼の怪我は「右前膊貫通銃創」だ。
 日本騎兵が突撃ラッパと伴に突進しているシーンを見て秋山が「騎兵の到着じゃ」と言う場面があったが、これもおかしい。秋山の報告によれば土城子戦で騎兵の「襲撃」(つまり突撃)が行われたのは2回あるが、どちらも秋山自身が突撃を命じたように読める。一回目は右側面から接近してきた清軍に対し「第二中隊をして之を襲撃せしむ」とあり、二回目は大砲を含む清軍に対して「第六大隊の第一中隊をして之に向て襲撃せしめ」た。
 公刊戦史でも一回目については「少佐は第二中隊(中略)に命ずるに右側より迫る敵を襲撃すべき」と記しており、二回目も「秋山少佐は騎兵第六大隊第一中隊(中略)をして直に之を襲撃せしめ」としている。「草案」でも2回とも秋山が襲撃を命じたと記されている。自分で命令したのに、まるで他人事のように「騎兵の到着じゃ」などと言っていたとは思えない。
 ドラマではまた「敵およそ3000」の増援が到着する場面があったが、この数字も秋山の報告には見当たらない。公刊戦史によればこの戦闘に参加した清軍の兵力は最終的に「歩兵約五千余、騎兵約百、山砲二門」に達したようで、理屈のうえでは3000の増援が一気に到着する場面もあり得ただろう。だが、秋山の報告では一度にやって来た増援はどれも数百単位だ。
 史料に書かれているがドラマで省略された部分もある。秋山の伝記には「併し秋山大隊長の身辺を憂いたる副官(中略)は、遂に溜り兼ねて大隊長の乗馬の轡を取り、強いて後方に引き戻したのであった」との記述があるが、ドラマでは秋山は最前線にとどまったまま。副官も無理に引き戻そうとはしなかった。

 史実とドラマとの違いは、要するにドラマで颯爽とした秋山の姿を描き出すための演出だと考えていい。実際は出ていない士官の戦死者を出し、敵の増援数を水増しすることで戦闘の緊迫感を高める。本当は副官に引き戻されたのを、そのまま最前線にとどまって危険に身を晒していたように描く。秋山自身が騎兵突撃を命令する場面を省いたのは、何より命令だけ出して突撃自体は部下が実行したという実情を描くのを避けたかったためだろう。突撃しろと命じて自分は後ろにとどまっていたのでは、映像的には極めて格好悪い。
 こうした演出の結果、最も割を食ったのは歩兵第三連隊の第一大隊、特にその第三中隊である。ドラマだけ見ていたのでは全く分からないが、実はこの土城子戦には捜索騎兵隊以外に同大隊も参加していた。しかも被害は騎兵が死者1、負傷者5だったのに対し、歩兵は死者10、負傷者32。要するに最も奮戦したのは騎兵ではなく歩兵だったのである。にもかかわらず彼らは秋山の影に隠れて画面に登場すらしなかった。これもまた一種の「坂の上の雲」効果かもしれない。

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コメント

No title

四尺
はじめまして。
WEBもブログもよく拝見しております。
ドラマについての見解は仰る通りと思います。
こういう業界の制作側からも「対立する主張や見解があればよりドラマチックなものを採用する」と聞いております。
ただ、司馬はこの作品は、バーバラ・タッグマンのような徹底振りはさておいて、史実だと言い切っていたのではないでしょうか。だから、歴史的観点からの批判も絶えないはずです。あのドラマは「このドラマはフィクション」としているのでしょうかね。

話し変わって、一つ質問です。
秋山の騎兵運用と異なっていた、ナポレオン時代の衝撃力重視の突撃で、あちらこちらで「(ワーテルローの映画などを引き合いに)騎兵の全速の突撃はもっと敵に接近してから。何故なら、馬が疲れるから」とありますが、では、例えば伝令などの騎兵のペースはどうなっていたのでしょう?
戦国ものの時代劇の「でんれー、でんれー」のかなり馬を急がせたイメージがあるのですが、それと騎兵突撃の逸話とちょっとずれを覚えました。
この辺りで参考になる資料や史実とかありますか?

No title

desaixjp
司馬がどういっていたかについて、ネットでは「事実に拘束されることが百パーセントにちかい」という言葉があちこちで紹介されているようです。それが事実なら、史実だと「言い切って」いたとは言えないでしょう。あくまで「百パーセントにちかい」であって100%ではないのですから、意図的な嘘もあったと考えていいのではないでしょうか。
また、実際には事実を反映した部分は100%近くどころではなくもっと少ないと思われます。少なくとも土城子のシーンでは、短い文章中に秋山の報告書などの史料と照らし合わせて明らかに間違っている部分が複数存在します。とても100%近くが「事実」などとはいえません。にもかかわらず司馬が「百パーセントにちかい」と考えていた理由については想像するところもありますが、まだ確認できていないのでここでの言及はやめておきます。

No title

desaixjp
いずれにせよ司馬の作品はやはり「小説」であり「歴史書」ではありません。小説家自身がその作品について何と言おうと、やはり小説はフィクション、嘘八百なのです。それを歴史的観点から批判している人は、「司馬の小説を歴史書と見なしている」という自らの誤った認識を天下に公言しているようなものだと私は考えます。あれは小説です。小説なら小説として批評、批判すべきです。例えば「繰り返しが多く、間延びして緊張感に欠けた物語である」とかそういう感じで。

伝令の移動ペースは「馬の体力による」の一言で説明できると思います。近い場所へ伝令を運ぶ場合は走らせたでしょうが、ずっと遠くまで伝令を送る場合は(替えの馬匹がない限り)普通に歩かせることも多かったでしょう。シェヘラザードさんが書いている伝令の話"http://grandearmee.web.fc2.com/messanger.htm"にはフェズンサックの「この馬は強情だったが、拍車をきかせて何とか進ませることができた」との言葉が紹介されており、場合によっては進ませるのにすら苦労していた様子が窺えます。

No title

うまやど
映画のようなドラマでした。

第4・5回は、内容的にどうかというところも
ありましたが。TBさせていただきました。

No title

desaixjp
フィクションの評価は主観的なものですから、「原作に沿っていない」点は批判されるべきと見る人がいるのも理解できます。個人的には「映像化作品は原作と別物」と考えていますし、むしろ「それで面白くなるのなら原作など無視して好き放題やれ」と思っているくらいですが、まあこれはあくまで私の主観ですので。

No title

コンチャン
司馬先生を司馬などと呼び捨てにされると頭に来ます
てめえは先人を敬う気持ちがないのか、恥を知れ
と言いたくなります
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