ドーキンスの「進化の存在証明」読了。原題はThe Greatest Show on Earth、つまり地上最大のショーだ。正直言って原題の方が面白いと思うが、翻訳者は「この邦題は映画"http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD5891/index.html"の印象が強い」と考えて副題を題名にしたとか。1950年代の映画など知らない人も多いのではないかと思われるものの、商業ベースの出版であればできるだけトラブルを避ける方がいいとの判断もあるだろう。まあ重要なのは題名ではなく中身だから気にする必要はない。
内容はドーキンスによれば「進化が事実である実際の証拠を提示」したものである。つまりダーウィンと同じことをしようとしていると考えればよさそうだ。実際、ドーキンスもダーウィンと同じようにまず人為選択の事例である家畜や栽培植物の品種改良から話を始めている。そして最後の章ではダーウィンが「種の起原」の最後に載せた一文を取り上げながら議論をまとめている。ほぼ全編これダーウィンへのオマージュと言ってもいい。
そういう内容なので、進化論について知識を持ち、その説を受け入れている人間にとっては、目新しいことは書かれていない。もちろん、様々な最新の研究結果は反映されているものの、そういった研究が基本的にダーウィンの説を支持する内容になっているため、大筋として「知っている理論が裏打ちされている」という話の繰り返しになっている。
それでもこの本を購入したのは、まさにその「最新の研究結果」の紹介に期待したからだ。基本的にドーキンスの本は最新の研究動向を織り込んで書かれているので、自分の知識をバージョンアップするのに向いている。だが、実際に買って読んでみると、少し予想外の事態が生じた。紹介されている新しい知見のうち、既に知っている話の比率が高まっていたのである。
例えばロシアの研究者が行ったシルヴァーフォックスの家畜化実験。ネット上でそれに関する記事は既に読んでいたし、関連動画も見ることができる("http://www.youtube.com/watch?v=enrLSfxTqZ0"や"http://www.youtube.com/watch?v=oDb27ZP9zEE"など)。馴れやすさを基準に選抜育種したキツネが、見た目もイヌのように変化していったことがわかる。こうした副次的な特徴が多面的に発現することが現実に観察できるのは、大変に興味深い。
大腸菌を使った進化実験"http://www.pnas.org/content/105/23/7899.short"も、ネットで様々に紹介されている。ドーキンスが進化の証拠を提示しようとする際には避けて通れない話だろうし、実際に詳しく内容を載せている。実験室の中で実際に進化が起きるという、生物学者にとっては感動的な話だ。
もちろん、知らなかった話もある。例えばイヌはオオカミが直接ヒトの手によって家畜化されたのではないという話。オオカミはまず自ら「自己家畜化」して村イヌ(野良犬)となり、それからヒトの手によってイエイヌになったという説があるそうだ。野生化したイヌがオオカミのように群れで狩りをすることなく、ゴミをあさる腐肉漁り屋になるところを見ても、イヌの直接の祖先がオオカミではないことが窺えるという。
イヌは家畜化されたもっとも古い哺乳類と言われている。なぜイヌが真っ先に家畜化されたのが不思議に思っていたが、事前にまずイヌ自身が自己家畜化していたのだとすれば分かりやすい。もちろん、なぜ他の生物でなくオオカミが自己家畜化したのかという謎は残っているし、オオカミ以外に家畜化した生き物たちもその過程で自己家畜化していたかどうかも気になるところだが。
最終章の題名は「この生命観には壮大なものがある」だ。そこに出てくるドーキンスの言葉がいかにも彼らしい。「たしかに、この生命観には壮大なところがあり、その基本原理である最適者生存から否応なく導かれる自然の超然とした無関心には、一種の威厳さえ感じられる」と語り、さらに「あらゆる寄生者や捕食者によって示される苦しみに対するひたすらな(というよりむしろ心を持たない)無関心を含めて、すべての生命にあまねく通じる荒涼たる論理のなかには、一つの魅力さえ感じられる」とも述べている。まあ、こういうことを書くから冷酷な主張をしていると批判を浴びるのだが。
こうした壮大な生命観、わけてもダーウィン的というよりドーキンス的な生命観に触れるたびに私の脳裏に思い浮かぶのは、実はフレイザーの金枝篇だ。金枝篇の未開人は世界を司る女神を操ろうと試み、そのために王を殺す。未開人の中ではそうした行動の辻褄が合っているのだが、実際の自然の働きを知っている人間から見れば彼らの行動は的外れに過ぎない。自然はそうした人間の努力とは無縁のところで活動している。
そうした自然=世界を司る女神の「無関心さ」が、私にはドーキンスの思い描く自然選択の力と重なって見えるのだ。生命の苦しみから超然としている自然選択は、あたかも自らが森の王と信じる人間たちの殺し合いに対して実際は何の反応も示すことはない自然=世界を司る女神のよう。科学的で事実である蓋然性が高い議論を「女神」にたとえるのはかなり不適切ではあるのだが、そう思えてしまうのだから仕方ない。
コメント