カリエとクレベール

 フランス革命期のナントの虐殺について本を記した人物として、ジョルジュ・ルノートル(本名テオドール・ゴスラン"http://fr.wikipedia.org/wiki/G._Lenotre")がいる。彼の著作は日本語にも翻訳されている"http://www.amazon.co.jp/dp/4794803745"ので、読んだことのある人もいるだろう。題名の通り、革命期にカリエがナントで行った溺殺刑について書かれた本だ。
 この本を読むと、同時期にヴァンデ鎮圧のために戦っていたクレベールとカリエの間に僅かながら接点があったことが分かる。問題は、ルノートルが紹介しているそうした「接点」にどの程度の裏づけがあるかだ。以前ならそうしたことを調べるのは難しかったが、今ではgoogle bookなどを使って簡単に調べられる。という訳でいくつかチェックをしてみた。

 ルノートルによれば、カリエが発した布告に対し、ナントに居合わせたクレベールが激怒したことがあったという。ヴァンデ王党派の子供たちの面倒を見た住民は全て反革命の容疑者として扱うという布告で、それを知ったクレベールは参謀副官のサヴァリーを通じてカリエに文句を言いにいかせた。カリエはその場は「そんな布告は知らなかったからすぐ取り消させる」と答えて誤魔化したものの、実際には布告の取り消しなどせず、弾圧を続けたという話だ。
 この話はGuerres des Vendéens et des Chouansという、ヴァンデ関連ではよく取り上げられる本で引用されているサヴァリーの回想録が元ネタらしい。Tome Troisième."http://books.google.com/books?id=8LcWAAAAQAAJ"のp30-32にサヴァリーの回想録からの引用が掲載されており、クレベールが怒った話はそのうちのp31に書かれている。ちなみにこのGuerres des Vendéens et des Chouansは、その詳細極まりない一次史料からの引用で有名だが、引用のやり方がいささか不誠実であることも知られている("http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/45027140.html"参照)。大嘘を書いてはいないようだが、注意深く読む必要がある。
 クレベールがナントにいたのは1793年12月24日から94年1月10日までだ、ということもルノートルは紹介している。こちらについてはKléber en Vendée"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k111939x"から引用したようで、同書の前書き部分に「彼[クレベール]はマルソー、ティリーと伴に12月24日夕にナントを再度訪れた」(pXVI)という記述と、「[1月]10日に彼はシャトーブリアンへ向かうため[ナントを]去った」(pXIX)との文章がある。クレベールがカリエに文句をつけたのが具体的に何日なのかまでは不明だ。

 ルノートルはもう一つ、クレベールとカリエに接点があったことを記している。93年10月のショレの戦いの際、カリエがカトリック王党軍の攻撃に怯えて逃げ出す場面があった。彼はたまたまクレベールの前を通り過ぎたのだが、その際にクレベールが彼に向かって皮肉を言った、という話だ。この話は例えばHistoire de la Vendée Militaire, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=OVt3pBPZy0wC"などに載っており、そこでは以下のように言及されている。

「カリエの見ている前で[カトリック王党軍の攻勢に]対峙したシャルボ、バール、ダマ麾下の兵たちは突破された。バール将軍は負傷した。カリエは慄きながら逃げ出した。国民公会議員[カリエ]が馬も武器も投げ出して逃げ出すのを見たクレベールは、アルザス人らしい辛辣な言葉で叫んだ。『兵士諸君、議員殿を後方へお通ししたまえ。彼は勝利の後で人殺しをするつもりらしい』」
p258

 こうした話は他にもHistoire des guerres de la Vendée, Première Partie"http://books.google.com/books?id=8HouAAAAMAAJ"のp447-448や、Histoire d'un Régiment la 32e Demi-Brigade"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5577606v"のp46などで紹介されている。問題は、どの本でも引用元が明らかにされていない点だ。
 特に困るのはHistoire de la Vendée Militaireの記述。同書の出版は1843年と、上に紹介した3つの本の中では最も古いが、この本自体はあくまで第二版(deuxième édition)。初版本"http://books.google.com/books?id=biUPAAAAYAAJ"は1840年出版で、そこにはカリエが慄いた場面は記されているものの、クレベールの皮肉に関する言及はない(p260)。つまりクレベール関連の描写は、3年後に第二版を出版する際に付け加えられたものなのだ。
 クレベール自身の記録を本にまとめたKléber en Vendéeにあるショレの戦いに関する記述には、カリエとのやり取りは一切記されていない("http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/cholet_kle.html"参照)。Guerres des Vendéens et des Chouansにもこうしたやり取りはなく、カリエが怯えて逃げようとし馬を失ったことが脚注で指摘されているだけだ(Tome Deuxième."http://books.google.com/books?id=35QFAAAAQAAJ" p265)。
 要するにナントでの出来事に比べ、ショレの挿話は論拠に乏しいということ。きちんとした史料が見つかればともかく、それまでは眉に唾をつけて見ておいた方がよさそうだ。

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