1799年史料ロンドン・ガゼット その9

 ウィーン、4月19日
 3月21日にカール大公指揮下の帝国軍とジュールダン将軍が指揮したフランス軍の間で行われたオストラッハの戦いに関する詳細。
 敵がシュヴァーベンでさらに前進を図ろうと続け、我々の前哨線と分遣隊を追い返しているとの情報が相次いで寄せられたため、殿下は彼らに向かって行軍することを決意した。
 3月20日、殿下は敵がオストラッハ沿いの我々の前哨線全てを攻撃したと知らされた。彼らは戦線を我々の方に押し出すことに成功したが、数の劣勢にもかかわらず我々の兵は彼らの前進を止めたのみならず、彼らをポルステラまで撃退すらした。アトシャウファン方面では敵はホフツィルヒェンまでしか侵入することができず、そこからもすぐ後に取り除かれた。
 彼らは戦力の大半をオストラッハの背後に集め、前衛部隊を同名の川の右岸に置いた。
 殿下は彼らを翌日に攻撃するための必要な措置を講じた。夜の間に、彼は兵を3つの縦隊に分けた。第1[縦隊]はスルガウからプフォケンシュタットへ行軍する。大公麾下の第2[縦隊]はクーフェンへと押し出す。第3[縦隊]はアトシャウフェンからラッツェンライテへ向かう。各縦隊はそれぞれ前衛部隊を持つ。
 21日早朝、我々の全前衛部隊は敵を攻撃し、すぐ後に続いた縦隊が敵にあらゆる方面から突撃した。優れた布陣と兵たちの勇気により、敵は頑強な抵抗にもかかわらずあらゆる場所で敗北し追い返された。彼らは夜の間、大慌てでシュトックアッハへ退却し、我々の前衛部隊は彼らを追撃した。自身とオービ将軍の師団と伴にいたフランスのフェリーノ将軍は、我々の旅団の1つを追い返したが、ジュールダン将軍の軍隊が敗北したことによって退却を余儀なくされ、極端な長い行程を乗り越えることによってのみ安全を確保することができた。しかしながら我々は多くの捕虜と、3門の大砲を得た。敵の損害は5000人にのぼる。我々は2160人の死傷者を出した。
 4月4日のトーフェルとサンタ=マリアの戦いの補遺。
 我々はサンタ=マリアで、薬包と火薬でいっぱいの90個以上の樽を含むかなりの弾薬を発見した。
 4月8日の出来事の記録。
 ベレガルデ中将は伯爵アルライニ将軍に、イタリア方面軍の作戦を助けるため様々な行動で敵を苦しめるよう命じた。彼は敵と接触したあらゆる場所で彼らを打ち破り追い払った。――部隊をロッカ=ダンフォ前面で止めたうえで彼は前衛部隊を押し出し、バガリーノの占拠した。
 これらの様々な戦闘における我々の損害は敵に比べれば極めて僅かだった。敵から大砲1門、軍旗1旒を奪い、多くの捕虜を得た。
 現時点で我々はロッカ=ダンフォを確保し、敵はヴェストーネとブレシアに退却しているとの報告が知らされている。
A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8"http://books.google.com/books?id=dYfhdzYbIa0C" London Gazette, p183-184

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック