暴動鎮圧

 今月のナポレオン漫画は予想通りのランヌ無双。女ユサールの正体も(微妙に名前や設定が違っているものの)基本的に想定通りだった。もちろんそれはそれで構わんのだが、個人的にはもうちょっと予想を裏切ってほしいところ。オージュロー無双と見せかけて実はカルノー大暴れの巻だったヴァンデミエールみたいな展開であればもっとよかった。まあそう思ってしまうのは歴史を知っている人間だからであって、そこまで詳しくない人間が読むとまた違う感想が出てくるのかもしれないけど。

 さて今週も史実との比較を。まず女ユサールだが、漫画ではポーラ・フーレスと名乗ってた。史実における彼女の名はポリーヌ・フーレ、とこれまで書いてきたがラストネームのFourèsはフーレスと読む可能性もある(外国人の固有名詞の読み方には一般的な発音の決まりが通じる保証はない)。ラストネームは史実と同じと見なしていいだろう。そしてファーストネームはポーラ(Paula)とポリーヌ(Pauline)だ。要するにほぼ一緒なのである。
 名前よりも設定の方が史実とのずれが大きい。漫画では彼女はドゼーの愛人になっているが、史実の彼女はフーレ中尉の妻である。エジプトへ向かう夫を追って男装して軍隊にもぐりこんできたのだ。で、彼女に目をつけたボナパルトがやったことは邪魔な夫をエジプトから追い出すこと。ナポレオンの書簡集の中にフーレ中尉への手紙が掲載されている(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième"http://books.google.com/books?id=glouAAAAMAAJ" p216)。
 読めば分かる通り、ボナパルトは夫にマルタ経由でパリへ向かうよう命じている。だが実際には彼はマルタへ向かうことはできず、英国海軍に捕まってエジプトへ戻されたらしい。彼はそこで妻が司令官に寝取られてしまったことを知る。妻の下に駆けつけた彼は自分のもとに帰るよう彼女に訴えかけたが、逆に離婚を言い渡されてしまったそうだ"http://www.napoleon-series.org/research/biographies/c_foures.html"。エジプト遠征の登場人物としては一番悲惨な役回りかもしれない。
 カイロ暴動の鎮圧にランヌが一定の役割を果たしたことは、ボナパルトが記した10月27日付の総裁政府への報告書からも分かる。そこには「ランヌ将軍はヴォー将軍に4000人から5000人の農民を攻撃させ、彼らはあっという間に逃げ出した」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p95)と書かれている。ただし、それだけ。他にランヌの名は見当たらない。自分で鎮圧を図ったのでなく、部下に命じて鎮圧をさせただけのようだ。
 同じく鎮圧に活躍したといわれているが、報告では地味な扱いになっているのがデュマ将軍。ボナパルトによれば「午前8時、私はデュマ将軍を騎兵と伴に送り出した」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p95)そうだが、それ以上の詳しい話はほとんどしていない。将軍の息子である大デュマが描き出したような活躍があったかどうかは、ボナパルトの報告書を見る限り不明。漫画ではちょろっと活躍していたミュラやジュノーに至っては名前すら出てこない。
 逆に本当は活躍したのに、漫画ではその舞台を奪われてしまった人物もいる。例えばボン将軍"http://fr.wikipedia.org/wiki/Louis_Andr%C3%A9_Bon"。デュピュイの死後に司令官に任命された彼こそが鎮圧の指揮を執った最大の当事者だ。また、ボン将軍の下で実際に動いたのは砲兵将軍のドンマルタン"http://en.wikipedia.org/wiki/Elz%C3%A9ard_Auguste_Cousin_de_Dommartin"。他にボナパルトの副官で、カイロの郊外に現れたベドウィンを追撃したスルコウスキについても、ナポレオンは報告書やセント=ヘレナで言及している(Guerre d'Orient, I."http://books.google.com/books?id=TLsNAAAAIAAJ" p252)。残念ながら、彼らマイナーな面々はランヌやミュラといった知名度の高い連中に駆逐されてしまったようだ。
 ボンにせよドンマルタンにせよ、もし長く生き延びていればもっと活躍の機会があったかもしれない。そしてそうした活躍を積み重ねていれば、彼らの知名度も上がり、漫画の扱いももう少し良くなった可能性がある。だが、結局はどちらもエジプトで死んでしまった。生き延びてフランスへ帰った連中に比べて扱いが悪いのは、その辺が理由ではなかろうか。先月号であっさり殺されてしまったカファレリとかも含めてそんな印象を受ける。
 ランヌの台詞となっている「これはお前たちが始めた。だが終わらせるのは俺たちだ」であるが、どうやらこちらはボナパルトの発言が元ネタらしい。ベルノイエによればボナパルトはシャイフ(長老)たちに向かって「お前たちが始めたものは俺が終わらせる!」(Bonaparte de Toulon au Caire"http://books.google.com/books?id=e6vjAAAAMAAJ" p118)と大見得を切ったそうだ。ランヌ無双のあまり、彼は上官の台詞まで奪ってしまったようだ。

 漫画に関してはこんなところだが、戦報についても少し。今回はドゼーに焦点を当てているが、その中で現存する彼の肖像画が実際には似ていないとの話が出てくる。実際、ドゼーの肖像画はあまりにもバリエーションが多すぎる。最も有名なのはこちら"http://www.culture.gouv.fr/Wave/image/joconde/0018/m502004_92de1091_p.jpg"だろうが、アンドレア・アッピアーニがこれを描いたのは19世紀初頭。ドゼーの死後だ。ストイベンの描いた絵"http://www.culture.gouv.fr/Wave/image/joconde/0015/m502004_81ee23_p.jpg"もあるが、こちらは19世紀半ばに近い時代のもので、アッピアーニの絵よりさらに新しい。
 ドゼーが生存していた18世紀後半にゲランが描いたのがこちら"http://www.culture.gouv.fr/Wave/image/joconde/0066/m501686_03ce9820_p.jpg"の絵。アッピアーニやストイベンの絵よりはおそらく実像に近いのだろう。私が以前、こちらのエントリー"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/49128245.html"で使った絵(左端)もあるが、これも他の絵とは印象が違っている。
 個人的に一番エジプトのドゼーの実像に近いのではないかと思っているのはこちら"http://www.culture.gouv.fr/Wave/image/joconde/0347/m502001_97-018292_p.jpg"。アンドレ・デュテルトル"http://fr.wikipedia.org/wiki/Andr%C3%A9_Dutertre"という画家の描いたものだが、デュテルトルはエジプト遠征に参加しており、エジプトのドゼーを直接見て描く機会があった人物だ。戦報にあるように口髭を生やしている点も見逃せない。随分とみすぼらしい姿ではあるが。
 デュテルトルの絵ではドゼーの顔の傷までは確認できないが、彼が顔に傷を負っていたのは事実のようだ。1794年3月24日付の姉妹に宛てた手紙の中に「祖国を守るために受けた名誉となる輝かしい傷跡のおかげで、私の顔も随分と男前になりました」(Le général Desaix"http://books.google.com/books?id=N95L5N9sVE4C" p116-117)と書いている。
 ドゼーは(戦報にもあるように)軍服を着用せず、サーベルも持ち歩かない男だった。軍服はともかく、サーベルがないのは時に深刻な影響を与えたようで、ラヴァレットはマインツ近くで敵の攻撃を受けたドゼーが「棒を引っこ抜き、あたかもローランの剣を手に持っているかのように戦い続けた」(Mémoires et souvenirs du comte de Lavallette, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=UAZbAAAAQAAJ" p144)と記している。変わり者であったことは確かなのだろう。

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