1875年、フランス軍の元帥に関する法令が改定された。David Chandler編のNapoleon's Marshalsによれば、「元帥杖の受領者は、会戦で勝ち誇った軍の指揮権を握っていること」(p528)が要件になったのだ。もしこの条件がナポレオン時代にもあったとしたら、いったい何人の元帥が生まれたのだろうか。
キモになるのは2点。「会戦で勝利する」ことと、その際に「軍の指揮権を握る」こと。ナポレオンならこの条件をいくらでも満たしている。マレンゴ、アウステルリッツ、イエナ、フリートラント、ヴァグラム。いずれも彼が軍の指揮権を握り、会戦で勝利している。もっとも皇帝になった彼が今更元帥になどなりたいとは思わなかっただろうし、実際に彼は元帥になってはいない。あくまで彼以外のフランス軍人が対象になるかどうかを調べなければならない。
まず既存の元帥たちの中で、そもそも軍を指揮したことが皆無またはほとんどない連中は対象外となるだろう。参謀長しかやっていないベルティエ、騎兵軍団の指揮官だったグルーシー、若年親衛隊の指揮官が多かったモルティエ、あくまで師団長でしかなかったセリュリエ、ほとんど軍団長ばかりのウディノやヴィクトールあたりはこの時点で脱落だ。
ベシエールは1808年のメディナ=デ=リオセコの戦いでクエスタ率いるスペイン軍に勝利している。この戦いはDigby Smithによれば会戦battleになる("Napoleonic Wars Data Book" p262)ので、彼は元帥になる条件を備えているようにも見えるが、実は彼がこの時率いていたのは「帝国親衛隊及び在スペイン西部ピレネー監視師団」(Georges Six "Dictionnaire Biographique... Tome I" p94)であって「軍」ではない。
ダヴーによるアウエルシュテットの勝利が条件を満たさないのも明白だ。彼は当時、軍司令官ではなく第3軍団長だった。彼が軍司令官になったのは1815年のワーテルロー戦後だが、やったことはパリの放棄くらい。
サラゴサを落としたランヌ、ダンツィヒを落としたルフェーブルはどうか。まずそもそもどちらも会戦battleではなく攻囲siegeだ("Napoleonic Wars Data Book" p245 & 279-281)。ランヌが第3及び第5軍団長("Dictionnaire Biographique... Tome II" p54)、ルフェーブルが第10軍団長("Dictionnaire Biographique... Tome II" p91)であることも、要件を満たしていないことを示している。
軍司令官ではあったものの、戦いらしい戦いを経験していない人物も落とされる。第一次対仏大同盟戦争が終わった時期にドイツ方面軍司令官となったオージュロー、フランス軍では監視軍など第二線部隊の司令官にしかならなかったベルナドットが実例。臨時の軍司令官代理の経験しかないネイ、西部ピレネー軍司令官をやっていたモンスイ、沿岸軍の司令官とか東部ピレネー軍の臨時司令官しかやっていないペリニョンなども、本格的会戦を行わないままその地位を去った。
無論、敗者も対象外。マルモンはダルマティア軍司令官の時には本格的会戦を経験せず、ポルトガル方面軍司令官の時にはサラマンカで派手に散った。マクドナルドはナポリ方面軍司令官としてトレビア川の戦いに臨み、スヴォーロフに敗れた。
ミュラは1808年にスペイン方面軍の司令官をやり、その後はナポリ国王となっている。また1812年のロシア遠征時には最終局面でナポレオンから指揮権を引き継いでいる。しかし、いずれの場面においても本格的会戦はなし。彼が会戦battleで敗北したのは1815年のトレンティーノの戦いだ。この時、彼はナポリ軍を率いてオーストリア軍と戦ったがあっさり負けている。
スールトも同様に条件から外れる。彼が軍司令官となったのは1810年のアンダルシア方面軍と、1813年のスペイン及びピレネー方面軍の時だが、アンダルシア方面軍では本格的会戦が行われず、ピレネーではウェリントン相手に連戦連敗を喫した。
難しいのはポニアトウスキ。彼は1809年にワルシャワ大公国軍の司令官としてオーストリアのフェルディナント大公の部隊と対峙し、最終的にはこれを退却に追い込みクラクフを奪っている。だが、Digby Smithはその過程において本格的な会戦があったとは見ていない。一方、こちらのサイト"http://napoleonistyka.atspace.com/Raszyn_battle.htm"ではラシンの戦闘について会戦battleとしている。まあラシンでは最終的にワルシャワ大公国軍が退却しているので、結局のところ元帥杖を得る条件は満たせないのだが。
ケレルマンはヴァルミーでの勝利があり、その時点で中央軍の司令官だったためかなり条件に近い。だがそもそもヴァルミーは会戦battleではないとの見方もあるくらい地味な戦闘で、実際Digby Smithもヴァルミーは砲撃戦(cannonade)としか規定していない("Napoleonic Wars Data Book" p26)。ヴァルミーに至る過程の機動において指揮を執っていたのがデュムリエである点も、ケレルマンが元帥杖を受け取れなくする理由になる。
グーヴィオン=サン=シールは1808年にカタロニア方面軍の司令官となっている。ところがその直後にこの部隊は在カタロニア・スペイン方面軍第5軍団となり、さらに第7軍団に名称が変わってしまった。その後に彼はカルデデウの会戦に勝利しているのだが、残念ながらこの時点ではもはや軍司令官ではない。あと少しで元帥になりそこねたといったところか。
元帥杖に届きそうなのは残る僅かな面々だけだ。まずスーシェ。1809年のマリアの戦い"http://fr.wikipedia.org/wiki/Bataille_de_Maria-Belchite"は残念ながら彼がまだ軍団長の時なので条件に合わないが、1811年のサグントゥムの戦い"http://napitalia.org.uk/eng/sag1.shtml"を会戦battleと見なすなら、スーシェは元帥になれるだろう。この時の彼はアラゴン方面軍司令官だったからだ。残念ながらDigby Smithの本にはこの戦いは載っていないが。
バタヴィア方面軍司令官としてカストリクム会戦に勝ったブリュヌは文句なしだ。Digby Smithもこの戦いを会戦battleとしている。彼はさらに1800年にイタリア方面軍の司令官としてミンチオ渡河作戦にも成功しており、これもDigby Smithに言わせれば会戦battleだ。
もっと文句なしなのはジュールダン。1793年のワッチニーでは北方軍司令官として、94年のフルーリュスではサンブル=エ=ムーズ軍(厳密にはモーゼル軍とすべきかもしれない)司令官としていずれも勝利を掴んでいる。そしてマセナ。スイス方面軍司令官としてチューリヒ会戦に勝利した彼も、もちろん元帥杖を身につけることができるだろう。
他にはいないのか。史実では元帥になれなかった面々の中に、1875年法令に従えば元帥になれそうな人物は。
まずジュマップで勝利した北方軍司令官のデュムリエが要件を満たしている一人目だ。しかし彼は後にフランスを裏切って連合軍陣営に逃げ込んでいる。彼がフランス元帥になる可能性は皆無だろう。
オンドスコートで勝利したウシャールも要件を満たしているのだが、不幸なことに彼はその直後にギロチン送りになっている。まあ20世紀のフランス元帥の中には死後選ばれた人も大勢いるようなので、彼にもその手は残されているかもしれない。
ジュールダンと同時期に活躍したピシュグリュだが、彼はなぜか会戦の現場に居合わせないという特技を持っていたので元帥にはなれないだろう。一方、彼の代わりにトゥールコアンで指揮を執ったスーアンは軍司令官になっていないのでやはり要件から外れる。
オッシュも同じ時期に活躍したが、彼の参加した戦いはどれも小規模なものが多い。Digby Smithが会戦と見なしているものとしてはカイザースラウテルンがあるのだが、この戦いはオッシュが敗北しているので、やはり元帥にはなれない。
内戦の勝者はどうだろうか。ショレの戦いで勝った軍司令官のレシェルなども、上の要件を単純に当てはめれば対象になりうる。まあ流石に内戦の勝者を元帥にするのは政治的に問題がありすぎるだろうし、レシェルはこの戦いの後まもなく死んでいるんだけど。
本来なら文句なしに元帥になっているべきだったのはモローだ。1796年戦役ではネレスハイムなどで、1800年にはホーエンリンデンで軍司令官として勝利している。特にホーエンリンデンは実質的に第二次対仏大同盟を終わらせた戦いなのだから、彼が元帥にならないのはおかしいのだ。もちろん、政治的にナポレオンと対立して国外に亡命した人物がナポレオン政権下で元帥になることはあり得ないが。
それ以外に対象になりそうな人物としては、東方軍の司令官としてヘリオポリスの戦いに勝利したクレベールがいる。とはいえ、彼が元帥になるとしたらあくまで死後の昇進だろうし、それすらもナポレオンの判断で行われない可能性がある。
要するに要件を満たしている軍人たちの多くは、政治的情勢を考えれば元帥になり得ない連中ばかりだったという訳だ。政治的に困難ではなく、なおかつ要件を満たしていながら、それでも元帥にならなかった人物となると、正直言ってウジェーヌくらいしか思い浮かばない。彼はイタリア方面軍司令官として、ピアーヴェ川やラープの戦いに勝利した。にもかかわらず元帥にならなかったのは、彼が既にイタリア副王になっていたからだろう。
もしナポレオンが政権を握っていた時代に、元帥を量産しないのが当たり前と思われていたらどうなったか。彼が作り出した元帥は最大でも5人程度にとどまっただろう。結果、デルダフィールドは「26人の行進」を書くことができず、たった5人分でどう話を盛り上げるべきか頭を抱えていたに違いない。
コメント
No title
それで、少し気になったところがあるのですが、筆者さんも
元帥の要件を文句なしに満たす、とされるジュールダンですが、
ナポレオンは確か、ジュールダンの軍事的能力については低くしか評価して
いなかったように思うのですが、筆者さんも言われるように、
軍司令官として2回もの大規模会戦に勝利した人物でもあり、
フルーリュスの戦いの経緯や、それにおける対応などを考慮しますに、
基本的には正攻法的な対応ではあるように思われますが、
それ程悪くない軍事的能力を示しているように思われるのですが、
いかがなものなのでしょうか。
筆者さんのお考えをお教えいただければ幸いです。
2018/06/08 URL 編集
No title
ジュールダンは確かに大きな会戦に勝利していますが、一方でヴュルツブルクの戦いやシュトックアッハの戦いなど大きな会戦で敗北もしています。
ちなみに勝った相手はコーブルク公、負けた相手はカール大公。
弱い相手に勝ち星を稼ぎ、でも強い相手だとダメだった、という風に見えてしまうのがナポレオンの低い評価の原因ではないでしょうか。
ちなみに以前紹介した「将軍たちのWAR」で言えばジュールダンは+1.411で、そう悪くはないのですが。
2018/06/08 URL 編集
No title
なるほど、そのような感じなのですか。
しかし、後世からの結果論で言えば、カール大公は
一度はナポレオンをも会戦で撃退した程の名将ですし、
この時代の将軍達の中で、最強がナポレオンだとしますれば、
ナンバー2かナンバー3をウェリントンと争うくらいの
軍事的能力を示している人物のように思えますので、
それに敗北したからといって、低い評価、というのもどうなのかな、とも
思えてしまいますかね。
まあ、ジュールダンはこの時代におきましての、中の上クラスの将軍で、
上の上クラスでナポレオンの次かその次か、くらいを争うカール大公には
勝利できなかった、というところなのでしょうかね。
2018/06/09 URL 編集
No title
興味深く読ませていただきました。
リー将軍やロンメルがマイナス値の低い評価の中で、+1.411を
ジュールダンがキープしているとは驚きました。
やはり、ジュールダンもまた、この時代におけるそれなりに
軍事的能力を示した将軍ではあった、というところなのでしょうかね。
まあ、だからといって、リー将軍やらロンメルよりも
ジュールダンが優れているとは、さすがに言わないのではありますけれどね。
2018/06/09 URL 編集
No title
それにどうやっても母数不足になりがちな「個人の資質の数値化」に大きな意味を見出すのはやめたほうがよさそうです。
あくまでゲームにおける能力値のように、暇つぶし用のネタと割り切った方がいいのではないでしょうか。
本気でジュールダンについての評価をしたいのなら、私が前にウルムのマックで試みたように、もっと詳細に彼の活動を調べることが必須だと思います。
2018/06/09 URL 編集
No title
そこまで絶対視したいとは思っておりませんかね。
上にも書きましたように、
リー将軍やらロンメルがマイナス値で、ジュールダンが+1.411、
というのは、大方の歴史ファンの人が納得しかねる数値だと思いますしね。
2018/06/09 URL 編集
No title
筆者さんに色々とご説明の方をいただき、色々と参考になりました。
これからもブログの執筆の方などを頑張ってください。
2018/06/09 URL 編集
No title
それでも参考になったのなら幸いです。
2018/06/10 URL 編集