古い時期にblogで書いたものについてサルベージしなおす作業を引き続きやってみる。一つはこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/27968845.html"で触れたランヌとボナパルトの初対面に関する話だ。ナポレオンはセント=ヘレナで「ランヌと最初に出会ったのはデゴの戦い2日目だ」と述べているが、実際は1日目。Phippsはそう指摘している。本当にそうなのだろうか。
ナポレオンの書簡集を調べれば分かる、ということで調べてみた。まずセント=ヘレナでのナポレオンの発言だが、ヴカソヴィッチによる攻撃(つまり2日目)について言及した後で以下のように述べている。
「ナポレオンが最初にその少佐(chef de bataillon)に気づき、彼を大佐にしたのはデゴの村だった。彼こそ、後に帝国元帥、モンテベロ公として大いに才能を花開かせたランヌだった」
Correspondance de Napoléon Ier, Tome Vingt-Neuvième."http://www.archive.org/details/correspondancede29napouoft" p88
確かに、素直に読めばデゴ2日目、つまり4月15日にナポレオンがランヌの存在に気づいたように読める。ただし、そう断言しているわけではないことも確かで、解釈としては微妙な部分も残る。
それよりも目に留まるのは、ナポレオンが最初に出会った際のランヌの階級についてchef de bataillon(少佐)と述べていること。Chrisawnも書いているように彼はイタリア方面軍に来る前に既にchef de brigade(大佐)に昇進している。Sixによれば昇進したのは1793年12月25日(Georges Six "Dictionnaire Biographique... Tome II" p53)。
ナポレオンは優れた記憶力の持ち主として知られていたが、その彼も細かい勘違いはいくらでもしていたということだろう。事実、Phippsの指摘通り、書簡集第1巻ではデゴ1日目、4月14日の戦闘について総裁政府に書いた報告書のラストに以下の台詞がある。
「第39半旅団の大佐が戦死したので、私は交代要員として後に市民ランヌ大佐を任命しました」
Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=6f4iAAAAYAAJ" p151
報告書自体の日付は15日となっているが、基本的に14日の戦闘に関する報告書なのだから、14日の時点でナポレオンがランヌの存在に気づいていたことは間違いなさそうだ。という訳で、この点についてはPhippsの指摘通りと見ていいだろう。
もう一つはマルモンの記したセリュリエの「旧体制の美」について"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/29288437.html"。このシーンについてマルモン以外に記した事例が見つからないという話だった。改めてナポレオンの書簡集に書かれた4月22日付の総裁政府宛報告書でモンドヴィの戦いに関する部分を抜き出すと、以下のようになる。
「夜明けに両軍は互いに気づいた。極めて執拗な戦闘がヴィコ村で始まった。ギウー将軍はモンドヴィの左側に向かった。フィオレラ将軍とドンマルタン将軍は敵中央を守っていた堡塁を攻撃し、これを奪った。結果、サルディニア軍は戦場を放棄した。同日夕、我々はモンドヴィに入城した」
Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=6f4iAAAAYAAJ" p170
どこにもセリュリエの名がない。まあフィオレラとドンマルタンはセリュリエ師団所属の旅団長だったそうなので、実際はセリュリエ師団が攻撃を仕掛けたことになるのだが、ボナパルトは報告書で彼の名に触れる必要性を感じなかったのだろう。セント=ヘレナでは「セリュリエはビコーケの堡塁を奪い、モンドヴィの戦いを決定づけた」(Mémoires pour servir à l'histoire de France sous le règne de Napoléon, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=m7cNAAAAIAAJ" p185)としているので、セリュリエの活躍自体を否定しているわけではなさそうだが。
それ以外にセリュリエが部隊の先頭に立ったことを示す史料があるのかというと、やっぱり見つからない。今のところ、マルモン以外の論拠は発見できていない状態だ。
さらに、シュテンゲルの捕虜問題"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/29335511.html"についても調べてみたが、こちらもややこしい結果に。まず一次史料は相変わらず発見できないまま。二次史料はいくつか見つけたのだが、それぞれ書いていることが違う。
一つはAnnales de la Société des Lettres, Sciences & Arts des Alpes-Maritimes. Tome XV"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k56843940"。そこではシュテンゲルが一度は戦場に放置された後で「エレロを通って敵を退却に追い込んだ第20竜騎兵連隊がすぐ彼を回収した。カラッソーネに運ばれた彼は、そこで数日後に死んだ」(p226)とある。ただし、この第20竜騎兵連隊を率いたのはミュラではなくボーモン将軍らしい(ベルティエ宛の4月21日及び22日の手紙が証拠だそうだ)。
それとは違う話を書いているのがLa Cavalerie sous le Directoire"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5696851v"なる本。同書の脚注には「サルディニア軍は20人の捕虜を得ており、そのうちシュテンゲル将軍はカラッソーネに置き去りにされ後にフランス軍によって回収された」(p256)そうだ。捕虜としてピエモンテ軍がカラッソーネに連れて行き、そこにシュテンゲルを置いて去っていった後にフランス軍がカラッソーネを占領したということだろう。どうやらシュテンゲルがカラッソーネで死んだのは間違いなさそうだが、捕虜になったかどうかは相変わらず不明である。
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