アーデルクラー再訪

 ヴァグラムの戦いに関連したベルナドット批判の中に、彼が5日から6日にかけての夜間にアーデルクラー村を放棄したというものがある。こちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/wagram.html"にも書いているが、どうやらオーストリア側の史料にそのようなことが書かれてあるらしい。で、実際にどんな文献にそういう話が載っているのかを少し調べてみた。
 見つけた事例の一つが1847年出版のDas Leben des Feldmarschalls Heinrich Grafen von Bellegarde."http://books.google.com/books?id=GZMJAAAAIAAJ"。アーデルクラーを占拠した第1軍団の司令官ベレガルデの伝記なので、当然この話も出てくるだろう。中身は以下の通り。

「早朝、夜間にザクセン軍がとどまっていたアーデルクラーの敵を詳しく偵察するため、騎兵大隊と男爵テッテンボルン騎兵大尉が送り出された。テッテンボルンは断固としてこの決断を実行に移したことで、敵参謀部の何人かの士官を捕虜にした。村には前日に負傷した敵だけがおり、守備隊は不在だった。彼は[オーストリア第1]軍団の到着までそこを守った」
Das Leben des Feldmarschalls Heinrich Grafen von Bellegarde. p197

 同じく1847年に出版されたカール大公の伝記Erzherzog Carl von Oesterreich."http://books.google.com/books?id=Y84WAAAAQAAJ"にも「その間、第1軍団はアーデルクラーのザクセン軍が夜明けにラースドルフ方面へと行軍するのを見て、すぐに男爵テッテンボルン騎兵大尉がアーデルクラー偵察のためクレナウ連隊の1個騎兵大隊と伴に送られた」(p697)とある。どうやらこのテッテンボルンに関する話が、アーデルクラー村放棄を裏付けるオーストリア側の証言と見られているようだ。
 私が探した中でテッテンボルンに言及している最も古いドイツ語文献はMerkwürdige Geschichte der Kriegsvorfälle zwischen Oesterreich und Frankreich im Jahr 1809."http://books.google.com/books?id=TSkKAAAAIAAJ"という本。1812年に出版されたこの本には、以下のような文章がある。

「その間、第1軍団はザクセン軍団が夜明けとともにラシュドルフへ行軍するのに気づいた。アーデルクラー村を偵察しこの場所の放棄に関する確かな情報を集めるため、クレナウ連隊の1個騎兵大隊と伴に男爵テッテンボルン騎兵大尉が送り出された。
 この士官は命令を多大な正確さと決意とともに実行した。彼は何人かの士官とポンテ=コルヴォ公の参謀を捕らえ、また前日に負傷したザクセン兵でいっぱいになっていた村を奪い、軍団の到着を待った」
Merkwürdige Geschichte der Kriegsvorfälle zwischen Oesterreich und Frankreich im Jahr 1809. p393

 上記の本は1812年出版となっているが、テッテンボルン関連の話はもっと前から言及されていた可能性がある。というのも1810年に出版されたRelation of the Operations and Battles of the Austrian and French Armies, in the Year 1809."http://books.google.com/books?id=KlNEAAAAIAAJ"という本に載っているテッテンボルンの挿話(p63-64)が、上記ドイツ語文献とほとんど同じためだ。先行する文献にテッテンボルン関連の記述があり、どちらもそこから話を引用したと考えられる。
 テッテンボルンという具体的な固有名詞に関する言及がある点、及びその出版年が遅くとも戦役翌年まで遡る点などを見ても、これが史実である可能性は高そうだ。ただ、上記の本が一次史料かといわれると、そうではないような気がする。また、戦役と同じ年の1809年に出版された雑誌Minerva, Vierter Band. Für das Jahr 1809."http://books.google.com/books?id=xaErAAAAYAAJ"のように「ベレガルデ伯は擲弾兵と伴にアーデルクラーを奪った――敵は頑強に戦った」(p58)と記し、ザクセン軍が村を放棄したのではなく戦って奪い取ったのだとしている例もある。だが、オーストリア側の文献にベルナドットが村を放棄したと解釈できる文章があることは間違いない。

 となると残る問題はアーデルクラーの放棄がナポレオンの意思に反していたかどうかだろう。ナポレオンの意図に反していた、という主張を広めた一つの要因になっているのではないかと思われるのが、Jean-Jacques-Germain Peletの記したMémoires sur la guerre de 1809, Tome Quatrième."http://books.google.com/books?id=V6sWAAAAQAAJ"。同書には以下のような文章がある。

「しかし、この時ばらばらになったルスバッハ高地への激しい攻撃を行えば、大公の中央は混乱したであろうし、朝のうちにその布陣を破り、さらには敵軍を分断して、ほとんど戦わずしてこれを蹴散らせただろう。ナポレオンはこの移動の優位性を見抜き、実行しようとしていた。全ては夜の間に準備されていた。不運なことに、アーデルクラーが大公の軍の一部によってちょうど占拠されたところだった。アーデルクラーは両軍にとってとても重要な場所だった。我々にとってはルスバッハへの攻撃の側面を支援し、またヴァグラム攻撃も支援できたし、敵にとっては、接近して側面の動きを守り、戦線両翼をつなぐものだった。大公はこの拠点の放棄を知らされ、クレナウ連隊の1個騎兵大隊と伴にテッテンボルン大尉を送った。すぐにシュトゥッテルハイムが第1軍団の前衛部隊とともにアーデルクラーを占めた」
Mémoires sur la guerre de 1809, Tome Quatrième. p205

 Peletの主張が正しければベルナドットは確かにナポレオンが検討していた反撃を難しくするような失敗をしたことになる。だが、別の人間が残した記録によるとそうとも言えなくなる。5日から6日にかけての夜間にマテュー・デュマは以下のような命令を皇帝から受けた、と記している。

「皇帝は私に全戦線に沿って移動し、敵が何らかの動きを見せその意図を示すまで前哨線を縮小しどのような攻撃にも応戦しないようにという彼からの命令をいくつかの軍団の全司令官に伝えるよう命じた。古い橋とアスペルン村から出撃し、我々の左翼を形成していたマセナ元帥の軍団は、この命令に含まれなかった。私の任務は、戦線中央にあるポンテ=コルヴォ公麾下のザクセン軍団のところで止まることになっていた」
Souvenirs du lieutenant général comte Mathieu Dumas, Tome Troisième."http://books.google.com/books?id=mIYEAAAAQAAJ" p369

 デュマの本は1839年出版で、Peletよりは遅い。だが一方で彼は自分こそが皇帝の命令を受けた本人であると主張している。つまり、自分は当事者だと言っているのだ。その当事者が皇帝の命について「前哨線を縮小しどのような攻撃にも応戦しないように」と伝えていることは重要だろう。デュマの指摘が正しいのなら、オーストリア軍の攻勢が迫るのを見たベルナドットがアーデルクラーを放棄したのは、むしろ命令に忠実に従ったためだとも解釈できる。
 ナポレオンの書簡集などを見ても、この夜に出した命令が文書として残っている様子はない。となると、現時点ではデュマの発言が最も当事者度合いが高いと見るしかないだろう。ベルナドットはアーデルクラーを放棄した。だが本人はそれが皇帝の命令に反する行為だとは思っていなかったのではないか。

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