今月のナポレオン漫画はカイロ暴動第一部。本来主役と期待されていたデュマがいなくなったところで一体どうするつもりかと思っていたら、今回もさりげなくマジックが登場しているし。もちろんあの男装のユサールのこと、ではなく、カファレリ将軍のことだ。という訳で早速史実との比較を。
まず最初にスフィンクス。エジプトのスフィンクスの鼻は、ボナパルトのエジプト遠征以前にすでになくなっていた。Travels through part of Europe, Asia Minor, the islands of the Archipelago, Syria, Palestine, Egypt, Mount Sinai, &c. VOL. II."http://books.google.com/books?id=68kGAAAAQAAJ"という長ったらしい名前の本に「我々はスフィンクスの頭と、2番目及び3番目のピラミッドを訪ねた。前者[スフィンクス]に関しては、女の姿をしており、鼻が少し欠けており、一つの岩から作り出されたと言われている」(p90)と書かれている。この本の出版は1759年。ボナパルトのエジプト遠征より40年近く前だ。
Napoleon Seriesのサイトにも「ナポレオンの兵はスフィンクスの鼻を撃ったのか」"http://www.napoleon-series.org/faq/c_sphinx.html"というページがあり、そこでは14世紀の狂信的ムスリム支配者がスフィンクスの鼻と耳を酷く傷つけたと指摘している。
次にベリーダンス。あの絵描きのドゥノンがこの時代のダンスについて絵を描き残している("http://books.google.com/books?id=M2kTAAAAYAAJ" p118)。「官能的」とか「淫らな」とか「破廉恥」といった形容詞で評しているので、まあ現代のベリーダンスと似たようなものだったんじゃなかろうか。エジプト遠征における兵士の性愛に関する話はシェヘラザードさんの大陸軍人物録"http://grandearmee.web.fc2.com/index.htm"にまとめがあるのでそちらをご参照のこと。
ランヌの女房が浮気をしていたのはよく知られている話であり、エジプト遠征中に子供を生んだのも事実のようだ。ただし、彼女が子供を生んだのは1799年2月17日(Margaret Scott Chrisawn "The Emperor's Friend" p57)。一方、カイロで暴動が起きたのは1798年10月だ。また彼の妻であるジャンヌ=ジョゼフ=バルブ(旧姓メリック、愛称はなぜかポレット)はペルピニャンの裕福な銀行家未亡人の娘であり、酒保女ではない。
次にジョゼフィーヌの浮気バレ。ブーリエンヌは、ボナパルトにこの話が伝わったのを1799年2月のエル=アリシュ近辺だったとしている(Mémoires de m. de Bourrienne sur Napoléon, Tome Second."http://books.google.com/books?id=88EWAAAAQAAJ" p172-173)が、研究者の中には遅くとも1798年7月25日までには伝わっていた筈だと指摘している人がいる(J. Christopher Herold "Bonaparte in Egypt" p204)。この指摘が正しいのであれば、漫画の描写も歴史的に見て正確だということになる。
そして片足の将軍カファレリ=デュ=ファルガ"http://fr.wikipedia.org/wiki/Louis_Marie_de_Caffarelli_du_Falga"。彼がエジプト学士院に所属していたことは書簡集のメンバー一覧(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Quatrième."http://books.google.com/books?id=9lcuAAAAMAAJ" p387)を見ても分かるのだが、漫画に描かれているような髭は生やしていない。そんでもってカイロの暴動で殺されてもいない。カファレリが死んだのは、1799年のシリア遠征の最中だ(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième."http://books.google.com/books?id=glouAAAAMAAJ" p412)。カイロで暴動が始まった時、彼はボナパルトと一緒にカイロ近くの要塞視察を行っていた。
では実際に暴動で死んだのは誰か。1798年10月27日付でボナパルトが総裁政府宛に記した報告書によると「デュピュイ将軍は護衛と伴に突撃し、彼の前にいた連中は全て崩れ去り、道が開けた。彼は腋の下に槍の一撃を受け、動脈を切られた。彼はそれからたった8分しか生きられなかった」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p95)。ドミニク=マルタン・デュピュイは1767年にトゥールーズで生まれた。ヴィゴ=ルシヨンが所属していた第32半旅団の大佐として主にイタリア方面軍で活躍。エジプト遠征に参加し、ピラミッドの戦いで名を上げてその翌日に暫定的に准将に任命されたばかりだった(Georges Six "Dictionnaire Biographique..." Tome I. p407-408)。
最後にユサール騎兵姿の若い女だが、エジプト遠征で最も有名な男装の女といえばポリーヌ・フーレ"http://www.napoleon-series.org/research/biographies/c_foures.html"だ。彼女はエジプトにいる間、ボナパルトの愛人となった女性である。夫を追って男装して遠征軍にもぐりこんだ彼女についてはジュノー夫人(Mémoires ou souvenirs historiques sur Napoléon, Tome Quatrième."http://books.google.com/books?id=Y7oPAAAAQAAJ" p59-)やブーリエンヌ(Mémoires de M. de Bourrienne, Tome Second."http://books.google.com/books?id=4ngQAAAAYAAJ" p295-296)などが回想録で触れている。
フーレ夫人がユサール騎兵の服装をしていたことについてはHistoire scientifique et militaire de l'expédition française en Égypte"http://books.google.com/books?id=TRQPAAAAYAAJ"に記述がある。未出版の史料から様々な引用がなされているというこの本によると、ボナパルトがエジプトを引き上げようとした時に「フーレ夫人はユサール騎兵の制服を身にまとい、近接した路地を歩き回っていた」(p284)。それに対してボナパルトは「これはこれは、随分と可愛いユサールが私をスパイしているようだ」と軽口を叩いて誤魔化している。結局、フーレ夫人は彼女がエジプトに置き去りにされることに気づいていなかったのだそうだ(Paul Strathern "Napoleon in Egypt" p404)。
もっとも漫画のように彼女が伝令役をやったり銃をぶっ放したりしたという話は見かけないし、顔に傷跡があったという説も聞いたことがない。このあたりは長谷川マジックの一部ということか。まあそもそもこの男装の女がフーレ夫人であるかどうかもまだ不明なのだが。
ちなみに彼女はボナパルトがエジプトを去った後にクレベールの愛人となり("Napoleon in Egypt" p410)、フランスに帰国した後は再婚したり商売で成功したりとなかなか波乱万丈な人生を送っている。最終的にはえらく長生きし、1869年、つまりナポレオンが生まれた100年後に死去している。ナポレオンの甥であるナポレオン3世が帝位を追われたのはその翌年だった。
次回は暴動鎮圧話だろうが、デュマなしでどう盛り上げるつもりだろうか。今回の様子だと新たなキャラの登場ではなく、久しぶりにランヌの暴走を見ることになる可能性が高そう。
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