グーヴィオン1796 17章3

 モローとジュールダンは、大公、ボナパルト及び他に名前を挙げられないほどの者から批判された。その批判は時に間違っており、時に道理にかなっていた。これらの議論は、彼らの行為が放つ輝きを損なうことなく、なお長期にわたって続けることができるだろう。彼らは人々の記憶から消されることなくとどまるだろう。この将軍たちは称賛に値することを成し遂げ、[戦争]技術の進歩に貢献した。批判は簡単だと昔から言われており、実績のある将軍たちにしか焦点を当てることのない批判が彼らの評判を傷つけるのを恐れる必要はない。自らは失敗せず誰かの作戦の中に失敗を見つけるような者が一人として存在しないことは分かっているのだから、批判は彼らが掴んだ栄光を損なうどころかむしろそれを評価することになるのだ。
 私はモローの布陣についても、特にバイエルンからの退却時について多く批判した。しかしながら私は、それがフランスの行った長い戦争の期間中に為されたこの種の[退却戦の]中で最も美しい機動であったことも承知している。偉大な軍人[ナポレオン]がロシア、ライプツィヒ、そしてワーテルローで行ったものとそれを比べれば、特に感嘆の念を抱くことができるだろう。
 総裁政府がイタリア方面軍、ライン軍及びサンブル=エ=ムーズ軍に命じた侵攻作戦によって示した目標は、1796年戦役で達成することはできなかった。彼らはオーストリア世襲領の国境で合流することができなかった。待ち望んでいた平和は、翌年まで延期された。しかしながら戦役計画の主な準備は成功しなかったものの、サンブル=エ=ムーズとラン=エ=モーゼル軍の努力によりある程度まで顕著な優位がもたらされた。連合軍は分断され、選帝侯のうち2人が大公の軍から兵を引き、いくつかのかなり強力な諸侯がフランスと講和した。オーストリア政府がこれほど活発な戦争の重荷を単独ではすぐに支えきれなくなることが予想できた。[諸侯の]離脱の結果として大公は約4万人の兵力を失った。言わば戦場に残ったのはオーストリア軍だけで、彼らはより大きな労力を払い、より大きな損失を蒙ることを余儀なくされた。カール公子は、ボナパルトの成功を食い止められたであろう増援をイタリアへ送る代わりに、モローに対抗するためいくらかの兵を集め、その右翼[ママ]をティロルから遠ざけなければならなくなった。これら全ての有利な点を認めず、イタリア方面軍の成功とオーストリア政府による講和の準備に彼らが強力に貢献したことを否定するのは不公正であろう。
 我々の将軍たちは、その作戦において十分な協力を図らなかったことによってではなく、何よりも政府があれほど複雑な戦役計画を指図したことが最大の原因となって失敗をした。互いにあまりに離れた場所から出発し、オーストリア世襲領で合流することを余儀なくされる3つの軍による3つの壮大な攻撃を実行するには、言わば望むこと自体不可能なほど高度な連携が必要だ。実際にアンベルクの戦闘とヴュルツブルクの戦い後にそうなったように、彼らのうち一軍が蒙るたった一つの大きな失敗ですら戦役計画を台無しにすることが可能だった。より賢明な布陣をすれば、政府はこの計画の選択によってもたらされた不利な点を避けられた。サンブル=エ=ムーズ軍は、ただライン下流の4ヶ所の[要塞]守備隊を封じ込めるだけの任務を委ねられるべきだった。この目的達成に必要ない物資と兵は戻して、オーストリアへ侵攻するのにより適切な場所にいるラン=エ=モーゼル軍に所属させ、イタリア方面軍の左翼を確保すべきだった。もしフランス軍によるライン渡河の後にこの布陣を採用していたなら、ラン=エ=モーゼル軍(註6)はネルドリンゲンで大公に対し、彼がドナウの両岸とティロルを経由したイタリアの[オーストリア]軍との連絡線を放棄して世襲領に急いで戻ることを余儀なくされるほどの優位を得ていただろう。北方軍をライン流域の監視に充てればより良かった。その軍はさらに3万人以上の兵をジュールダンの手にもたらし、大公に対するさらに大きな優位性を確実にしてくれただろう。
 政府は軍が為しうる以上のことを求めたが、それは何も得られないやり方である。求められた全てのことができない部下たちは、自分たちが望む以外のことは何もしないからだ。しかし、もし総裁政府が我々の将軍たちに対する命令の中で非常に広範囲にわたる侵攻を求めるのであれば、彼らは特に敵を打ち負かすことを求め、そしてその際にモローには彼にできること以上を求めないようにすべきだった。ジュールダンについては、彼の戦う相手がヴァルテンスレーベンだけであった間は、優位な戦力を使って敵が大公と合流する前に決定的な戦いをするよう指示する。この命令が不適切であるとは誰にも言えない。だが、政府がさらに我々の将軍たちに指示し、彼らが常に忘れながらしばしばそこへ立ち戻った命令は、互いによく連絡しながら行軍せよというものだった。もし総裁政府が7月30日付の手紙(註7)で指示しているようにモローがヴェルニッツあるいはアルトミュールの右翼に軍団を保持していれば、ジュールダンは退却を強いられなかっただろう。そしてもし、政府が8月23日付の手紙(註8)でサンブル=エ=ムーズ軍の右翼をモローの左翼と合流するよう求めることでより公的な手法で表明したこれらの命令の精神に従って後者[ジュールダン]が作戦を行っていれば、我が軍の勝利は保証されたように思える。
 総裁政府の命令は将軍たちにかなりの自由裁量の余地を残しており、最も重要なのは成功することだった。それが罪であると誰が考えただろうか? 実例はすぐ近くにあり、ボナパルトはイタリアで勝利をもたらした。政府が命令したティロルを越えてモローに接近するという案を、彼はすぐに捨てた。彼はイタリアでの最初の成功を確かなものにすることを好み、そしてその時点では不可能だと考えていたことを後に実行する手段を与えてくれる新たな成功のための準備をした。
 だが浪費されたのは時間だけだった。ドイツ方面の軍隊のうち一つは常に成功していた。もう一方の運勢は破綻した。優位を得た後で彼らは挫折を味わったが、それは事態を変えるほど飛びぬけたものではなかった。そして次の戦役が証明したように、オーストリア政府に和平を強いるにはフランス全軍がウィーンを射程内に捉える必要はなかった。ライン沿いにこの列強[オーストリア]の戦力がある方が、ドナウ沿いにあるよりも有利だった。なぜなら完全な軍を維持し、食糧、弾薬を供給し、増援を送って支援し、さらに住民を扶養する際には、国境近くよりそこから遠く離れていた方が困難だからだ。重要なのはオーストリアがライン支援部隊の中からイタリアの軍へと兵を派遣するのを妨害することであり、彼らがそうした場合にはすぐに攻勢を採り彼らを追撃できるようにすることだった。

註6:この部隊はジュールダンが指揮すると推定できる。彼は大規模な戦争についてより経験豊富だった。北方での包囲戦で名声を得たモローは、もちろんラインの要塞を封じ込める役目を担う。
註7:第3巻、史料37番。
註8:同上、66番。


 以上で17章は終わり。

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