グーヴィオン1796 17章2

 さらに注意しなければならない問題は、この時期のフランス軍が極めて異なった性格を持つ3人の将軍からあらゆる必要な命令を受け取り、その下で鍛えられ、導かれたことである。彼らの影響は多かれ少なかれ出来事に反映された。ある軍は大いに経験を積んでいた。他の1軍も十分な経験があった。残る1軍では経験はほとんど欠落していたが、将軍の性格に伴う決断力とその大胆な才能によって埋め合わせられた。
 ボナパルトはその性格によく合った新しい種類の戦争を導入したと言える。その戦争は、あらゆる可能なところから、すなわち行軍や戦闘の最中に兵を集めてくることに基礎を置いている。二ヶ月弱の間に彼は、他の軍が全戦役の間に実行したのと同じだけの仕事を成し遂げた。また彼は、自らが試みた強行軍と戦闘または血腥い会戦で構成されている一連の作戦こそが戦役であると公言した。兵の行軍速度を倍増し、朝にはある場所で、昼または夕方には別の場所で戦わせることで、彼は敵に比べて全般的には劣勢にある戦力を使い、あらゆる場所で数の優位を得ることに成功した。しかし、戦闘の数の多さ故に、敵の火力によって彼の兵が味わった損失もまた必要以上に多くなった。彼の軍の2ヶ月の損失は、他の軍の6ヶ月分に相当した。窮乏と疲労の結果、兵力の消耗はさらに大きな割合まで高まった。なぜなら異常な疲労が兵の行軍速度の大半と、馬匹と軍の装備を奪ったためである。いくらかの優位性があると人々が決めてかかりたがっている同様の手法は、3ヶ月ごとに軍を一新できる[ほどの国力がある]国家にのみ相応しいものだ。ボナパルトがフランスの全軍と欧州の他の部分の軍を握っていた時に、その軍の一新を行っていたように。
 [ボナパルトの]1796年戦役は彼が実行に移した戦役の中で最も穏健なものだった(註5)。ずっと後になって、彼がそれを最も美しいものと見なしていたことを私は認めなければならない。従ってこの戦役は、彼の手法の長所と短所を評価するために彼が好んで選んだものであろう。ドイツ方面の軍とイタリア方面軍が行った戦争手法はあまりに異なっており、その比較においてあらゆる問題を提供している。それは我が軍に導入された良い手法または悪い手法として知られるようになり、そして軍に対してと同様、その指揮を執る将軍たちの性格にも影響した。もちろんそれぞれの戦争手法の価値について断定的に言明するには、環境と指揮官の腕前の程度を考慮する必要がある。そのためには軍事的知識と、比較対象となっている軍の作戦についていっそよそ者と言ってもいい程度の公平さが求められる。
 現代の軍事著作家の一人がこうした種類の作品を書き上げるのを、私は見てみたい。というのも、誰一人として洗練された方法で戦争の経緯を描き出していないからだ。我々は面白みのない形式で書かれたものでなければ、最も役に立つものを読むことができない時代に生きている。時は来たり、事実はよく知られるようになった。それらは主な当事者、例えばボナパルトや[カール]大公、ジュールダンらによって記述されている。彼らの回想録は歴史に基づいており、最も高い重要性を持つ教訓的な材料である。
 私が述べた作品は、兵士たちの教育用に大いに使われるだろう。大公の作品は、著者の高い能力と公平性を考えるなら、その一部は称賛に値する。もし著者が多くの情報を欠落させることなく、戦略の名の下に戦争をある種の厳密な科学に仕立てると主張している学説を作り上げることを目的とする彼の理論と現実の出来事を常に調和させようとしていなければ、それは完璧だっただろう。そうした学説は、今までのところ理論家の中にしか改宗者を生み出せていない。
 大公は彼と我々の将軍たちに厳しい批判を浴びせている。しかし、彼はその理論への愛情溢れるあまり、自分自身ですら除外しなかった。彼は自身の失敗を、小さいものでも大きなものでも僅かな気を遣うことすらなく非難している。おそらく時には彼自身に対して不公平と見られるほどに。そうした慎ましさは高位にある者にのみ許させることであり、そしてこの公子はあまりに行き過ぎているため、もし彼がもう少し才能に欠けていればその批判も正確なのではないかと疑いたくなるほどだ。
 この戦役で大公が深刻な失敗をしたと見なすことができるのは、私が見るところ開始時と終焉時の2回だけだ。疑いなく彼はそのようには判断せず、むしろその批判をより軽いものと見なした。私は既に、彼が最高戦争会議によって企図された計画を諦め、フランス軍がライン河の反対側に戦場を移すのを防ぐ唯一の手段である左岸での作戦を行うようあらゆる者が命じていた時に右岸で作戦を行ったことを指摘した。
 なお深刻ではあるもののより重要でない結果をもたらした失敗として彼が批判されるべきだと私が格付けたものの中に、彼がジュールダンを見張るため多すぎる兵をラーン川に残したことと、同様にエトリンゲン近辺で会戦するためモローに向かっていた時のライン河沿いでの布陣がある。会戦に敗北した後の彼が、ライン河沿いの布陣を捨て、ドナウ河へ向かって必要のない大退却をする決断を下すという大失敗をやらかしたことに気づかないのは難しい。というのも、もしモローがドナウとオーストリアへ向かって彼の連絡線を脅かすなら、大公はマンハイムを経てモローの連絡線へ進みアルザスへ侵入することができたし、そうなればモローは補給のないランダウとストラスブールを救出するため急ぎ呼び戻されただろうからだ。ライン河沿いの布陣を確保することで大公は、他の戦争で見られたようにいずれかの岸で、あるいは両岸で同時に戦争を行う主導権を握る。だがライン河を捨ててドナウ河へ後退した場合には、帝国諸侯に対して彼らを守る手段がないと公言することになる。彼らをフランスと講和する必要下に置くことで、彼らの兵力撤収により彼自身の軍が弱体化する。もし私が「戦略原理」の著者[カール大公]と異なる意見を持っているとしたら、それは彼が巧妙な作戦と判断しているものに私が深刻な失敗を見出している点にある。ネレスハイムの戦いを行ったことについての彼の意見がそうで、彼はすぐに立ち直り、どれほど戦争技術の原則に従ったかを指摘し、それが彼の天分を示す頂点だったとしている。
 彼は敵の強さを評価し、彼らに対する彼の強みは指揮権の集中と、公子としての高い身分が軍に及ぼす権威にあると見た。この時からジュールダンがデュッセルドルフへ後退することを決意する時まで、彼の行軍は単に成功を延長したものでしかなかった。おそらくカール公子の成功は彼に過剰な自信を生じさせた。その自信は、サンブル=エ=ムーズ軍とケール守備隊を監視するために多すぎる兵を残し、配置可能な数を下回る戦力でモローのところへ戻ってくるという失敗を彼に繰り返させることで、彼が得たばかりの有利な立場を失わせるリスクを犯させた。さらに彼がこの移動をあまりにも引き延ばし、フライブルク前面での攻撃をあまりに躊躇し試行錯誤していたことも見て取れる。にもかかわらず彼が成功したのは、彼の敵が犯した失敗の方がさらに大きかったことが明白である点を示しているようだ。

註5:彼はその損失を癒すためにアルプス方面軍、それから西方軍と国内に残ったほとんど全部隊、加えてラン=エ=モーゼルとサンブル=エ=ムーズ軍の一部まで、相次いでイタリアの戦場にひきつけることをどうにか成し遂げた。しかしこれらの資源は、後に彼の政権下における布告が彼に与えたものに比べればとても弱体だった。

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