グーヴィオン1796 17章1

 英訳が終わったグーヴィオン=サン=シールの回想録1796年戦役分の一部を日本語に訳してみた。読んでもらえば、彼の文章がどれほど理屈っぽいかが分かるだろう。長いので何回かに分けて掲載する。ちょうどラン=エ=モーゼル軍がライン河への退却を終えた段階で、それまでの戦役全般についてまとめている部分だ。


 第17章
 ラン=エ=モーゼル軍のライン左岸への帰還は、いずれにせよ私にとって1796年戦役の終結を意味しているように見えた。戦役がそこで終わらなかったのは、一つの失敗だけでなく極めて大きな不運のためである。軍は休養する必要が大いにあった。6ヶ月に及ぶ野営の連続は兵と馬匹を疲れ果てさせ、各種機材を破壊した。衣服も靴も同様に完全に壊れ、兵の3分の1は裸足となり、他に制服の名残として見られるのは水牛の革を使ったベルトだけだった。彼らが着込んでいる農民たちのぼろ布を除き、彼らの頭部も胴体も時間の虐待に晒されてきた。彼らはこのような状態でユナングへと行軍したが、にもかかわらず彼らの様子は堂々たるものだった。いかなる時もこれほど軍人らしい姿を見たことはない。彼らの足取りは誇り高く、おそらくその一瞥には獰猛な何かがあった。この軍は再びライン河を渡る前に、右岸で冬営するため1回や2回の会戦を戦うことはできたし、成功することも疑いなかった。しかし一度彼らがフランスに入れば、休養の必要性が強く感じられ、それなしに、また衣服や靴なしに、彼らを他の作戦に投入できなくなるであろうことを思い描くのも簡単だった。さらに、サンブル=エ=ムーズ軍が疲労を回復するためライン左岸で宿営に入った事実を、ラン=エ=モーゼル軍の誰もが無視できなかった。
 ラインの軍勢が退却を実行している間、イタリア方面軍は多くのことを成し遂げた。10月1日以降、ヴルムゼルはキルメーヌ将軍によってどうにかマントヴァに封じ込められていた。ボナパルトは同月の間ずっと、イタリアで戦う相手がいないのに乗じて、同様に大いに必要だった休息を彼の兵たちに与えた。彼はオーストリアが配置できる戦力について知っていた。そしてマントヴァが十分な補給を受けておらず、彼らがそれを解放するための3回目の試みを行うことは疑いなかった。かくして彼は戦闘の準備を行った。10月末にかけ、彼は[フランス]国内から歩兵12個大隊の増援を受け取った。11月6日、彼の軍は5週間の休みを得、騎兵の状態は良好で、数多い砲兵もよく準備ができていた。彼はトレント、ヴェローナ、バッサノ周辺の宿営地を出立し、敵へ向かった。
 アルヴィンツィ将軍はティロルとフリウリでヴルムゼル軍の残存部隊と合流した。オーストリア政府はまだドイツの軍勢を弱体化させることは望んでおらず、逆にラトゥールの軍のために国内から引き抜いた増援を与えることを余儀なくされていた。にもかかわらず彼らは、マントヴァ解囲を試みることができる一軍を編成するのに十分なだけの兵をアルヴィンツィに送ることができた。ヴルムゼル麾下で既に同要塞への補給が2回成功していたため、新たに補給を行うのに十分な時間があった。アルヴィンツィはボナパルトが攻囲を行うために必要な手段をもはや持たないことを知っており、その時点において、マントヴァへ補給したうえでドイツを完全に解放するためそちらの軍に多数の部隊を派出するには十分だった。この作戦に対して[ライン方面の]フランスの2つの軍、特にラン=エ=モーゼル軍は警戒していた。そのため可能な限り早く兵に休息を与え、ティロルへの兵の動きに気づくや否や彼らを戦役へ戻すことに備える必要が生まれた。しかし、実際には当分の間この計画がオーストリア政府の企図するところとならなかったことを、後に我々は見るであろう。新たな教訓を彼らが受けさせられることが必要であり、ボナパルトはそのための準備をしていた。マントヴァ湿地の悪疫を生み出す空気によってその軍が壊滅すると信じられていた時に、彼がオーストリア軍相手に行った新たな一連の戦闘のことは知られている。私はこのブレンタ、カルディエロ及びアルコレの戦闘について話したいと思う。
 この戦役はあらゆる種類の軍事的出来事を豊かに含んでおり、熟考に値する多くの主題を軍人たちに提供している。そこには、理論ではなく事実によって支持される多くの議論を含む問題を見つけられるだろう。戦争のほぼ全ての側面に関する優れた教訓が提供されている。例えば、侵攻作戦の長所と短所について、侵攻可能な広さと、危険なしに侵攻できる限界について(註1)。または、あらゆる地形における守備的及び攻撃的戦闘について。あるいは、軍が実行する最も困難な作戦、例えば退却(註2)や、河川や山脈及びあらゆる種類の隘路の通過について。その大いなる実験から、いくつかの軍が連携して行軍しなければならない時に遭遇する困難、侵攻作戦及び防衛作戦において要塞都市が果たせる役割(註3)、必要になった時に必要な場所に急いで要塞化した拠点を造りあげる可能性、そしてそれらの造られた拠点を防御あるいは攻撃する手法(註4)などについて判断することもできる。軍の組織、軍を分割し指揮系統を確立する手法、様々な兵器の併用、その他にここで取り上げるには長すぎる数多の質問に関する見地も得られる。

註1:我々のドイツにいた軍の将軍たちが、その作戦をデュッセルドルフからティロルの間の範囲で実行したことが正しかったのか間違っていたのか、そしてボナパルトが、彼の作戦をティロルとポー河左岸の間の地域に限定したことが上手くいったのか拙かったのか、それを知ることは賢明であろう。これらの将軍が置かれていた環境については考慮に入れなければいけない。
註2:この戦役の間、この作戦は3回実行された。うち1つはドイツ軍によって、他の2つはフランス軍によって。
註3:ドイツではこれらは遥か後方に置き去られた。ジュールダンはマインツとエーレンブライトシュタインを見張るため多くの兵を使った。モローはフィリップスブルクを封鎖しマンハイムを監視するためたった歩兵3個大隊と騎兵3個大隊のみを残した。そして同時代の将軍たちの中で最も大胆だったボナパルトは、マントヴァにある唯一の要塞が自らの手に落ちるまでそこから遠ざかろうとしなかった。ドイツでは我々が採用した手法は何の悩みももたらさず、そしてイタリアではマントヴァ封鎖は軍の一部を破壊した。
註4:私が念頭に置いているのはケールとユナング橋頭堡の攻囲であり、この件についてはいずれ触れる。

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