1799年史料ロンドン・ガゼット その1

 ハンブルク、4月5日
 オーストリア軍からの最新の報告によると、前月21日の戦闘の後、ジュールダン将軍は21日から22日にかけての夜間にシュトックアッハとエンゲンへ退却したようだ。そこで彼はシャフーゼンからエンゲンを経てドゥトリンゲンまで戦線を敷き、後者[ドゥトリンゲン]の場所近くに軍の主力を集めた。[カール]大公は彼に向かって25日に前進し、ジュールダン将軍はオーストリア軍を攻撃した。彼の左翼は当初、成功を収めた。しかし中央と右翼が敗れ、彼は大混乱の中で全軍とともに退却することを余儀なくされた。右翼はスイス方面へ、彼自身は残る軍と伴にシュヴァルツヴァルトを経てフリブールとオフェンブールへ向かった。
 シュヴァーベンでこうした事態が推移している間、マセナ自身は23日、フェルトキルヒの陣地を攻撃した。そこではイェラチッチ将軍がホッツェ将軍の留守を預かっていた。フランス軍は多くの損害を出して撃退され、ライン彼岸へ追い払われた。その後、ホッツェ将軍が率いて行軍していた1万2000人の部隊と伴にブックホルンからフェルトキルヒへ戻り、フランス軍は21日の大公の勝利の結果、その後退却をした。
 これらの激しい戦闘が行われたと見られる様々な行動における双方の損害はかなりのものだったが、フランス軍の方がオーストリア軍より遥かに多かった。しかしながらオーストリア軍も何人かの卓越した士官を失った。21日にフランス軍は4000人――23日には3000人――を失ったと述べられており、25日には先行する日々のいずれよりも遥かに損失が多かったとされている。
 26日、大公は敵を追撃して行軍した。
A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8"http://books.google.com/books?id=dYfhdzYbIa0C" London Gazette, p166

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