ナポレオン漫画最新号は「絵描きのドゥノン」ことドミニク・ヴィヴァン=ドゥノン"http://fr.wikipedia.org/wiki/Vivant_Denon"大活躍の一席でありました。先月のデュマに続いて今月はドゥノンと、マニアックな人物に焦点を当てた展開が続いている。おかげでドゼーとムーラッド・ベイの追いかけっこはかなり省略されてしまったが、まあ普通の読者にとってはひたすらナイルを行ったりきたりする話よりこっちの方が盛り上がると踏んだのだろう。軍事に興味がある人は戦報を読めってことか。
さて今週も史実との比較を。冒頭にはイブラヒム・ベイが出てくるが、彼の部隊はナイル右岸にいたのでフランス軍と直接対峙してはいない。アル=ジャバルティによれば「彼ら[フランス軍]は河の両岸から接近してくると想定されていた」("Al-Jabarti's Chronicle of the French Occupation" p36)。イブラヒム・ベイが右岸にいたのもそのためだろう。
続いて出てくるエピソードが、銃剣を使ってナイルからマムルークの死体を釣り上げる話。これはヴィゴ=ルシヨンの回想録に出てくるので知っている人は多いだろう。あいにくと引越し後にあの本がどこに行ったか分からなくなったので掲載ページまでは分からないが。
それからコンテ"http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolas-Jacques_Cont%C3%A9"の名前がようやく紹介される(アブキールの時から登場していたが、あの時は名前が出てこなかった)。コンテはボナパルトが設立したエジプト学士院(Institut d'Égypt)の物理学部門に所属(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Quatrième."http://books.google.com/books?id=9lcuAAAAMAAJ" p386参照)し、1798年9月24日の命令で衣類工房に配属されている(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième."http://books.google.com/books?id=glouAAAAMAAJ" p8)。
彼は気球部隊の担当でもあったし、試験用風車の建設も担う(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p83)など、漫画にも描かれているように幅広い役割を果たした。なお見た目があれだが別に「もう勝った気でいるな。よし、教育してやろう」などと言ったりはしない、と思う。
そしていよいよ主人公ドゥノンの登場だ。彼がドゼーの部隊に同行したのは史実で、ボナパルトが11月12日付で記したドゼーへの手紙に「上エジプトの旅行に関心を抱いている市民ドゥノンがそなたに会いに行く」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Cinquième. p131)旨を告げている。実際には上エジプトに行く前に下エジプトのデルタ地方なども旅しているようだが、そのあたりは省略だろう。
漫画に出てきたドゥノンに関するエピソードは、いずれも元ネタがある。例えば彼が絵を描いている時に、近くに兵士がいたという話。漫画ではいやいや付き添っている風だったが、ドゥノン自身によると「熱心な兵士は膝をテーブル代わりに使わせ、体で影を作ってくれた」(Voyage dans la Basse et la Haute Égypte, Tome Second."http://books.google.com/books?id=RItaAAAAQAAJ" p27)そうだから、もっと前向きに協力していたようだ。ビクトルは彼らを見習うように。
兵士たちが遺跡に向かって捧げ銃をしたという話はデヴェルノワが紹介している。テーベで遺跡を見たフランス兵たちから「拍手が轟いた。兵士たちは自発的に隊列を組み、軍楽隊のドラムに合わせて捧げ銃をした」(Mémoires du Général Bon Desvernois"http://www.archive.org/details/mmoiresdugenera00desvgoog" p164)そうだ。ただ捧げ銃の実際の格好はこちら"http://www.toysoldiersclub.com/Toy-soldiers_NA182_King-and-Country.aspx"であり、漫画とは異なる。
「俺が今日見たものは、あらゆる苦労を償って余りある」と話している兵士がいるが、これにも元ネタがある。ドゥノンが記したラトゥルヌリーという士官がデンデラの遺跡"http://en.wikipedia.org/wiki/Dendera"を見た時に話した言葉がそれ。「エジプトに来て以来、私は常に欺かれ、憂鬱で病気がちだった。だが、タンタラ[デンデラ]が私を癒してくれた。今日見たものでこれまでの苦労は全て報われた。これから私の身に何が起ころうとも、もう気にしない。この日が永遠に残してくれた記憶がある限り、私は残りの人生を満足に過ごせるだろう」(Voyage dans la Basse et la Haute Égypte, Tome Second. p24)。
驚いたことにドゥノンとアラブ人の「荒野の決闘」シーンですら元ネタがある。
「彼[ドゥノン]は砂の上に腰を据え、急いで描き始めた。絵が完成する前に小さく渇いた鋭い音が響き、紙と顔の間を通り過ぎていった。それは銃弾だった。顔を上げると、弾を当て損ねたアラブ人が武器に再装填しているのが見えた。彼は地面に置いていた自分のマスケット銃を掴み、アラブ人の胸を撃ち、スケッチ用紙を抱えて後退し船へと戻った。その夕方、彼は描いた絵を見せた。『地平線が歪んでいる』とドゼーが指摘すると彼は答えた。『ああ! それはあのアラブ人が早く撃ちすぎたせいだ』」
La relique de Molière du cabinet du baron Vivant Denon"http://www.archive.org/details/lareliquedemoli00richgoog" p22
ほぼ漫画の通りだが、この話は他のエピソードとは少し異なる。上の本に記されている引用元はÉloge histor. sur la vie et les ouvrages de M. le Baron Denon, par M. de Pastoret (Séance annuelle des cinq Academies, du 25 octobre 1851)。つまりドゥノン自身ではなくパストレ(ドゥノンの友人)が書いている話なのだ。しかも出版年はエジプト遠征から半世紀も後。エジプト遠征に参加した当事者が書いている他のエピソードに比べ、この話は比較的史実である可能性が低いと見られる。
でもまあ今回の話で一番史実っぽくないのは、実は漫画の中に登場するアブ・シンベル神殿"http://en.wikipedia.org/wiki/Abu_Simbel"だったりする。砂の中に埋もれていたアブ・シンベルが再発見されたのは1813年。ボナパルトのエジプト遠征より後だ。ドゥノンらが神殿を見ることは不可能だった。
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