阿蘭陀風説書5

 1809年(文化6年)には風説書と並んでオランダ商館長が「隱密申上候横文字」の翻訳もある。和蘭風説書集成の參考史料にはそれも掲載されており、欧州情勢についてもう少し詳しい説明がなされていたことがわかる。
 まず出てくるのが「伊祇利須國よりデー子マルカ國に攻來申候、右デー子マルカ國は兼而軍事に預らす、何れの國にも荷擔不仕候國にて、更に備も無之所、不慮に伊祇利須人押寄せ、デー子マルカ國之内セーラントといふ一島を押領仕候、依之デー子マルカの國主拂郎察國王に救を憑み、拂郎察も其乞に應しデー子マルカ國を救ひ、兩國の軍卒を以て伊祇利須勢を追討仕候由に御座候」という話。1807年に起きたコペンハーゲンの戦い"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Copenhagen_(1807)"に関する説明だ。中立であったデンマークを英国が襲撃したのは事実なので、この説明自体には問題はない。なぜこの話をこれほど大きく取り上げるかという問題はあるが。
 次に「伊祇利須國より亞墨利加に軍を挑候由、頓而亞墨利加國と戰爭にも及可申段」について。英米が戦争に至ったのは1812年からだが、それ以前に両国がどのような関係にあったかは私はよく知らない。1806年から07年にかけて英国がブエノスアイレスに遠征を行っているが、ここで紹介されている「亞墨利加國」は「北亞墨利加州にて近來伊祇利須人を追討し獨立仕候國に御座候」とあるのでそれとは無関係だろう。
 さらにティルジットの和約を示すと見られる文章もある。「本国筋之戦争、伊祇利須國・魯西亞國・スウヱーデ國・プロイス國・ドイツ國等、拂郎察并阿蘭陀に敵し候兵亂者、于今連綿仕、相募申候得共、歐羅巴諸州接攘乃國俗等專ら治平を祈望仕候人氣に相成申候、右之風説實事にも相成候はゝ、魯西亞國も一應和平可仕と奉存候」というのがそれ。ティルジットは07年。08年には船が来なかったので09年の資料にこの話が出てくるのはおかしくない。
 面白いのはこの「魯西亞國も一應和平」を受けた極東への影響に関する分析だ。「當時魯西亞と伊祇利須一致仕、拂郎察并阿蘭陀との戰爭中に候得は、右戰爭中は軍船數隊押寄せ候樣之儀も有之間敷候得共、此末歐羅巴州及平和候はゝ、魯西亞之軍卒手明きに相成、尚伊祇利須の軍船も手透を得候得は、魯西亞、伊祇利須申合、軍卒は魯西亞、軍艦は伊祇利須と兩國相黨し、押寄せ候樣之儀も難計哉之段、カピタン推察なから御隱密申上置候儀を相含、前條申上候儀に御座候」とある。
 つまり、欧州の戦乱が止めば英露両国が極東へ押し寄せることも考えられる、という話。実際にはティルジットの和約時点でロシアと英国は対立関係にあるので「軍卒は魯西亞、軍艦は伊祇利須と兩國相黨」することはあり得ないし、むしろ欧州での戦争に力を取られて極東へ関心を振り向ける余裕はなくなっていると思う。もしかしたらオランダ商館長は自分たちの苦境(本国はフランスの属国となり、植民地は英国の攻撃にさらされている)を悟られないために幕府を怯えさせようとしていたのかもしれない。
 その後、1810年から12年まで「阿蘭陀船入津無之」と連絡は途絶える。13年(文化10年)には船が来るが、「去る巳年申上候通ヱゲレス國とフランス國阿蘭陀國は戰爭彌相募り候得共印度邊は平和申候」だけで欧州の話は終わっている。本当ならロシア遠征の情報も入ってくるべきだが、この時期は「本國筋戰爭に付敵船爲防船々本國表へ出張仕」という状態だったのでジャカルタにも情報が十分に入っていなかったのかもしれない。
 14年(文化11年)、欧州では歴史を決めた諸国民戦争の翌年、風説書は相変わらず「連々申上候通、フランス國阿蘭陀國一致仕ヱケレス國及ひ魯西亞國と戰爭、今以平和不仕候」とそっけない内容だ。とりあえずロシアがまた戦争に参加したことは分かるが、プロイセンやオーストリアの動向が全く触れられていないあたり、情報が途絶えがちになっていることが分かる。1815、16年はまたも「阿蘭陀船入津無之」となる。
 17年(文化14年)、ようやくナポレオンの没落まで含めた情報が入ってきてもおかしくない状況が整うが、やはり風説書は内容が不十分。まず「連々申上候通歐羅巴諸州并戰爭之儀去々亥年及平和、印度邊も彌以靜謐に相成申候」と平和が訪れたことは知らせているがどちらが勝ったかは分からない。
 そしてオランダ本国について「去る巳年申上候フランス國王弟ロウデウヱイキ・ナアポウリユムと申者阿蘭陀國に養子仕、國主に相立置申候處死去仕候に付、以前之國主プリンス・ハンヲラーニイ(官名)血脈之者阿蘭陀國王に相改、國政等三拾ケ年以前に囘復仕候」と記している。ルイは死去したわけではないし、国政が30年も前に戻ったわけでもないが、ナポレオンの没落を窺うことができるのはこの文章くらいしかないのである。
 以上、阿蘭陀風説書を読む限り、最初のうちはそれなりに正確だが、オランダがフランスの属国になったあたりから嘘が混じりだし、情報が途絶えがちになった後半の時期には不正確さが増していったと見るのがいいだろう。一つの情報源だけに頼ると間違いを犯しかねないという教訓につながりそうな例である。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック