「場所は取り戻せるが、時間は取り戻せない」 ――ナポレオン?
上の文章は英語の文献などを見ているとよく登場するフレーズだ。例えばDavid Chandlerの"Jena 1806"ではこれが「ナポレオンが好む軍事格言の一つ」として紹介されている(p96)。ナポレオンの発言を集めたサイト(一例"http://www.military-quotes.com/Napoleon.htm")などにもよく見られるし、英語のwikiquote"http://en.wikiquote.org/wiki/Napoleon_I_of_France"にも登場する。そして先日のNHK番組「名称の采配」にも、アウステルリッツの戦いを象徴する格言として出てきた。
確かにナポレオンらしい発言ではある。機動力を重視したフランス軍の皇帝にとって、これはなかなかふさわしい言葉のように思えるのは事実だ。だが、この手のものは「ふさわしく思える」という主観だけで決めてはいけない。必要なのは証拠、つまりナポレオンがこの発言をしたという動かぬ証拠が必要なのだ。という訳でその証拠を探してみたのだが、その結果は実に意外だった。
まず、このフレーズを紹介している英語文献の大半が引用元を記していないという問題がある。Chandlerだけでなく、Geoffrey Woottenが記したWaterloo 1815"http://books.google.com/books?id=reKwqofqrgwC"のp52、Charles M. WestenhoffのMilitary Air Power"http://books.google.com/books?id=CO3KGziU52MC"のp1917、Louise KellyとChristopher A. BoothのDictionary of Strategy"http://books.google.com/books?id=OfYLsdp355oC"のp154などにも同じ言葉が出てくるものの、いずれも引用元は不明だ。他にも探せば色々とある。
英語で見つからないならフランス語を。そう考えてフランス語のサイトを探してみたところ、見つけたのはこちら"http://gustave.club.fr/principes_guerre.htm"。ありがたいことにここには「ナポレオンが1814年1月7日にシュタイン宛に書いたもの」という説明までがついている。ならば後はその当日の手紙を見ればいい、という訳でナポレオンの書簡集第27巻"http://www.archive.org/details/correspondancede27napouoft"を紐解いてみた。当日書かれた手紙で同書に収録されているのは2通。だが、どちらもシュタイン宛の手紙ではなかった。
もちろん書簡集に収録されていないことはその手紙が存在しない証拠にはならないのだが、それにしても妙だ。おまけに別のフランス語サイト"http://napoleonbonaparte.wordpress.com/2007/09/01/napoleon-par-ses-citations-de-la-revolution-a-lempire/"を見ると、上のサイトとは文章の細部が異なっている。さらに、英語文献ではあるが、ナポレオンの発言が1814年ではなく1806年のイエナの戦い前だと主張する本(Napoleon and the World War of 1813"http://books.google.com/books?id=ZeozpuGHhVoC" p289)も見つかった。
一体これはどういうことだろうか。なぜフランス語でも引用元がはっきりしないのか。募る疑問を晴らすべく、google bookでどれが最も古い文献に当たるのかを調べてみた。フランス語で最も古かったのは1947年出版のItinéraire de Napoléon Bonaparte"http://books.google.com/books?id=_o8ZAAAAIAAJ"。著者はLouis Garrosで、同書p436にこのフレーズがある(やはり引用元は見当たらない)。ナポレオンが死んで120年以上も後に出版された本であり、いくら何でも新しすぎる。これを一次史料と見なすことは不可能だろう。
他に調べる手段はないのか。ヒントは上に紹介したフランス語サイトにあった「シュタイン」だ。ここでいうシュタインとはおそらくプロイセンの政治家だったシュタインのことだろう。そもそも1814年1月といえばプロイセンを含む連合軍がフランス中心部へと進撃している真っ最中。この時期にナポレオンが敵国の政治家宛てに手紙を書き、その中で軍事の要諦について述べているという状況自体がかなりおかしい。「時間は取り戻せない」というフレーズについて、ナポレオンではなくシュタインとの関連で調べてみたらどうなるだろう。
そうやって見つけたのがPrécis militaire de la campagne de 1813 en Allemagne"http://books.google.com/books?id=czuW1Z2u_-QC"という本。出版は1881年であり、まだナポレオンの死去からかなり時間が経過していることは確かだが、少なくとも20世紀半ばに出版された本よりはマシだ。同書のp13にある"nous pouvons regagner de l'espace ― du temps perdu jamais"というフレーズこそまさに「場所は取り戻せるが、時間は取り戻せない」だ。しかも、このフレーズの後には脚注を示す番号がついている。
残念ながらgoogle bookでは本の一部しか見られない。だがこちらのサイト"http://www.archive.org/details/prcismilitaired00unkngoog"を使えば、前後を含めた部分を完全に読むことができるのである。そこには、以下のような文章が書かれていた。
「グナイゼナウ曰く、『戦略とは時間と空間の使い方に関する科学である。私は後者よりも前者を惜しむ、なぜなら我々は失った空間を取り戻すことはできるが、失われた時間は決して取り戻せないからだ』(註)。
註:シュタインへの手紙、ダンマルタン、1814年1月27日」
えええええええ、グナイゼナウっすか? ナポレオンじゃなくて? マジ?
というのが私の最初の反応。いや本当にびっくりした。どこもかしこもナポレオンの言葉だと紹介しているあのフレーズは、古い文献では別人の、ナポレオンの敵の言葉になっているのだから。
だが、実際問題としてこれがグナイゼナウの言葉であればおかしな点は解消される。少なくともシュタイン宛ての手紙で軍事格言に言及すべき人物としては、ナポレオンよりグナイゼナウの方がはるかに適任だろう。また、ワーテルロー戦役におけるグナイゼナウの活動、特にワーテルロー会戦後に間を置くことなく実施された追撃まで考えるなら、彼の言葉として「ふさわしい」ということもできる。
おまけに、これがグナイゼナウの発言であることを示すドイツ語の原文も見つけた。グナイゼナウがシュタインに宛てた1814年1月27日付の手紙はDas Leben des Feldmarschalls Grafen Neithardt von Gneisenau"http://www.archive.org/details/daslebendesfeld04delbgoog"のp167-169に載っており、そのp169の部分に間違いなくRaum mögen wir wiedergewinnen; verlorne Zeit nie wiederという文字が見える。もうこれは確実と言っていいだろう。少なくとも論拠不明・引用元不詳のナポレオンより、こちらの方が圧倒的に正しい可能性は高い。
ではなぜグナイゼナウの発言がナポレオンの発言にすり替わってしまったのだろうか。色々と調べたところ、どうやらMaximilian Yorck von Wartenburgの本が大元にあるらしいことが分かってきた。Yorck von Wartenburgは1885年にNapoleon als Feldherr"http://books.google.com/books?id=acosAAAAYAAJ"という本を出版しているが、その中に「なぜなら彼[ナポレオン]はグナイゼナウのように[場所は取り戻せるが時間は取り戻せないと]考えていた」(p44)という文章がある。上で紹介した1880年出版のグナイゼナウ伝記から引用したのだろう。
間違いを広めたのは、このドイツ語の本自体ではなく、それの英訳本だと思われる。1902年に出版されたNapoleon as a General, Vol. I."http://books.google.com/books?id=CWwPAAAAYAAJ"のp48にはfor he thought with Gneisenau thatという、何とも微妙な一文が紛れ込んでいるのだ。これではナポレオンとグナイゼナウの両方が「時間は取り戻せない」と言っていたように見える。せめてlike Gneisenauくらいにしておけば良かったのに。
もちろん、その後に出た英語文献でも、まともな著者はそんな勘違いはしていない。1904年に出版されたTheodore Ayrault DodgeのNapoleon; a History of the Art of War"http://books.google.com/books?id=a7QnAAAAYAAJ"では「グナイゼナウのように、彼[ナポレオン]は[時間は取り戻せないと]言うことができただろう」(p232)と表現している。あくまでhe could sayであってhe saidではないのだ。
しかし、世の中にはDodgeのようにきちんと読まない人間もいる。慌て者が勘違いしたのか、それとも分かっていて故意に間違えたのかは知らないが、遅くとも1917年には「場所は取り戻せるが時間は取り戻せない」をナポレオンの言葉として紹介している英語文献が登場した(The Texaco star"http://books.google.com/books?id=vR89AAAAYAAJ")。その後も1919年に出版されたPercy ScottのFifty Years in the Royal Navy"http://books.google.com/books?id=SrwBAAAAMAAJ"のixページや、1925年出版のWilkinson Dent BirdのThe Direction of War"http://books.google.com/books?id=mKZDAAAAIAAJ"p236など、続々と同じ間違いを再生産した本が出てきている。
そしてそうした間違いが、遅くとも20世紀半ばまでにはフランスにも伝わったのだろう。少なくとも上に紹介したフランス語サイトがYorck von Wartenburgの英訳本を参照していることはほぼ確実。証拠は日付だ。ドイツ語の原本ではグナイゼナウが手紙を書いた日付は正しく「1814年1月27日」になっているが、英訳本では「1月7日」と間違って記されている。英訳本が間違いを広める原因となり、それが挙句の果てに21世紀の日本のテレビ番組にまで押し寄せてきたことが窺える。
結論は以下の通り。
「場所は取り戻せるが、時間は取り戻せない」 ――グナイゼナウ
グナイゼナウの子孫は、先祖の名言を奪われたことに文句を言っていい。
コメント
No title
で、いつも思うのですが、今回のブログにさらっとかかれているような新しい知見って、ブログで「読み捨て(失礼な表現ですみません)」られるより、何らかの形で論文として公表するに値する内容ではないでしょうか?
2009/07/26 URL 編集
No title
おっしゃる通り、この手の話でも形式を整えれば論文にはなるかもしれません。ただ、ここに書いている話は別に「新しい知見」ではありません(1880年出版の本に書かれています)し、誰であっても少しネットで調べれば分かる程度のことしか書いていません。わざわざ論文にするのも面倒ですし。
とりあえず「読み捨て」にはならないよう、「大陸軍 その虚像と実像」の方にまとめたページをそのうちアップしようか、くらいは考えています。
2009/07/27 URL 編集