革命戦争期で最も優秀なフランスの将軍はといわれれば、文句なしでボナパルトになるだろう。だが、最も有能な将軍がいつも最も多い軍隊を率いていた訳ではないのがこの時代の特徴。例えば1796年初頭、ボナパルトがイタリア方面軍司令官に選ばれた時の麾下戦力を見ると、名目上は6万3000人強いたものの、守備隊を除けば4万7000人弱に、さらに拠点防衛用の部隊を除いた野戦部隊になると4万人強にとどまっていた(Ramsay Weston Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume IV" p14)。
同じ時にモロー麾下のラン=エ=モーゼル軍が6万5000人強(Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume II" p273)、ジュールダンのサンブル=エ=ムーズ軍が7万8000人弱(同 p260)を抱えていたのに比べると、いかにも少ない。この時点ではあくまでイタリアは副次的な戦線だったというのもあるが、ボナパルトの司令官デビューに対する期待より、実績のあるジュールダン、モローの方に総裁政府が重点を置いていたことが良く分かる。
1年経過した1797年になると、実績を十分積み上げたボナパルトの下にサンブル=エ=ムーズとラン=エ=モーゼルから増援が送られてくる。それでも拠点防衛部隊を含めたボナパルト麾下の軍勢は約6万6000人と、同年のラン=エ=モーゼル軍(約6万人)よりは多いもののサンブル=エ=ムーズ軍(約7万人)よりは少ない(Phipps, Volume IV, p163)。しかも、この時ボナパルトが率いたのは、革命戦争期を通じて彼の麾下にあったおそらく最大の軍であった。
1798年にボナパルトが率いてエジプトに上陸した軍勢は約3万人。海上輸送という制限があったためだが、やはりいかにも少ない。フランスに戻って第一執政になった後に率いた予備軍(1800年)も、数は約4万人と随分地味だ。同時期にモローが率いたライン方面軍が10万人に達していたのに比べると半分以下。要するに革命戦争期を通じ、ボナパルトは大軍らしい大軍を率いたことがほとんどなかったのである。
同じことは各会戦を調べても言える。もともと数が少ないのだから、個別の会戦で率いた兵力数にしても他の会戦に比べれば見劣りがするのは確かだ。Digby SmithのNapoleonic Wars Data Bookによると1792-1800までの期間でボナパルトが最も多くの兵を率いた会戦はカスティリオーネであり、その数は3万5000人となっている(もっと少ないという説もある)。これはデュムリエが行った3つの会戦(ヴァルミーの5万2000人、ジュマップの4万3000人、ネールヴィンデンの4万2500人)のいずれよりも少ないし、同年のネレスハイムの戦いでモローが率いた5万人も下回る。それどころか、後にマセナが第一次チューリヒ会戦で指揮した4万5000人にすら及ばない。
カスティリオーネ以外の会戦でボナパルトが率いた数は3万人に達しないものばかり。マレンゴの戦いでも、Smithによればその戦力は2万8127人だった。敵も含めた戦闘参加者全体で見ると最も多かったのはピラミッドの戦い(フランス軍2万人、エジプト軍6万人)となっているが、正直エジプト側の数字がかなり大雑把で正確性に欠ける。それを除くと多くて5万人台というのが、革命戦争期にボナパルトが戦った会戦の規模だ。正直、同時期の記録としては決して大きくはない。
大きな会戦になると、革命戦争期でも両軍の合計数字は10万人を超えた。後のナポレオン戦争期になれば40万人を超えたライプツィヒ、30万人を上回ったと見られるドイチュ=ヴァグラムなど、一方の軍だけで10万人を超えていた会戦がいくつもあるため、それに比べれば地味な感じは拭えないものの、「ボナパルトの戦い」よりはずっと規模の大きな会戦があったことは確かだ。
Smithの本を読むと両軍合計で10万人以上の会戦は革命戦争期に6つあったことになる。ただしそのうち1800年の「エンゲン及びシュトックアッハの戦い」は、実際には6リュー(24キロ)も離れた場所で行われていた別々の戦い。エンゲンとシュトックアッハを個別に見ると、規模の大きかったエンゲンでも両軍合計兵力は約6万5000人と言われており、10万人には及ばない。また、フルーリュスの戦いが2つ載っているのだが、うち一つは前哨戦的な位置づけのものなので省略してもいいだろう。つまり、革命戦争期の大規模会戦は実質4つあったことになる。第4位から見ていこう。
・メスキルヒの戦い(1800年5月5日)
モロー率いるフランス軍と、クライ将軍が指揮したオーストリア軍の会戦で、フランス側が勝利している。Smithによれば兵力は仏5万2000人、墺4万8000人の計10万人ジャスト。ただし別の説もあり、ドイツ語wikipedia"http://de.wikipedia.org/wiki/Schlacht_bei_Me%C3%9Fkirch"によれば仏5万5000人、墺5万4500人の計10万9500人となる。ボナパルトのアルプス越えの背後を守るために攻勢をしかけたモローに対し、クライが兵力をかき集めて抵抗した会戦だが、結果はフランス軍の勝利となりクライはウルムへ向けて退却を続けることになった。
・フルーリュスの戦い(1794年6月26日)
オーストリア領ネーデルランド(現ベルギー)の運命を決めた戦い。サンブル河を渡って何度も攻勢をしかけたフランス軍の努力が実った戦いであり、ジュールダン率いる7万7300人がザクセン=コーブルク公の4万6000人を打ち破った。もっともこれまた他の説もあり、英語wikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Fleurus_(1794)"では仏軍7万人、連合軍5万2500、フランス語wikipedia"http://fr.wikipedia.org/wiki/Bataille_de_Fleurus_(1794)"は仏8万9592人、連合軍5万2500人に、ドイツ語wikipedia"http://de.wikipedia.org/wiki/Schlacht_bei_Fleurus_(1794)"では仏7万7300人、連合軍4万6000人となっている。初めて気球が使われた戦いでもある。
・ホーエンリンデンの戦い(1800年12月3日)
モローのフランス軍がヨハン大公のオーストリア軍を打ち破り、第二次対仏大同盟を終わらせた戦い。フランス軍7万6407人に対し、オーストリア軍は4万9000人となっている。これまたwikipediaを調べてみると英語版"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Hohenlinden_(1800)"は仏5万3795人、墺6万261、ドイツ語版"http://de.wikipedia.org/wiki/Schlacht_bei_Hohenlinden"は仏10万人、墺12万人という驚愕の数字になっている。ドイツ語wikipediaが正しいのならこれが革命戦争期最大の会戦になるが、さすがに他のデータとかけ離れすぎているのが問題。もっともSmithの数字もwikipediaとは随分異なるのが悩ましいところだが。
・トゥールコアンの戦い(1794年5月17-18日)
おそらくこれが革命戦争期最大の会戦だ、と言ってもピンと来る人はほとんどいないだろう。フランス軍がスーアン、連合軍がザクセン=コーブルクという、双方の司令官の名前も知る人は少ないに違いない。だがSmithによればこの戦いにはフランス軍8万2000人、連合軍7万4000人の計15万6000人が参加していたことになる。マレンゴ会戦の3倍近い数だ。もちろん、毎度のことながらこれにも異論はあって英語wikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Tourcoing_(1794)"などでは仏7万人、連合軍7万4000人とフランス軍が少なめ。それでもこの戦いがかなり大規模なものであったことは否定できない。
以上、革命戦争期の4大会戦を紹介した。残念ながら歴史教科書に出てくるような戦いは一つもないし、この時代によほど詳しい人間でもなければ耳にしたことがない戦いばかりだろう。一方、ナポレオン自身が加わった戦いは、より規模の小さなマレンゴやピラミッドでもその名は知られている。英雄史観の方が世の中によく受け入れられていることを示す一つの証左だろう。
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