大陸軍千一夜blog"http://blog.livedoor.jp/sheherazade/"で、ワーテルローの騎兵突撃に関して「アイラウの再現を狙った」と解釈した小説が紹介されていた。ミュラが1万騎の騎兵を率いてロシア軍を蹂躙したと言われるあの突撃だ。だが、その実態については色々と分からないことが多い。そこで、今回はアイラウの騎兵突撃について調べてみる。まずはフランス側の証言。最初は大陸軍公報だ。
「公報第58号
1807年2月9日、プロイシッシュ=アイラウ
(中略)
天候が晴れた時、大公[ミュラ]は親衛隊の先頭に立つベシエール元帥とサン=ティレール師団に支援された騎兵を率いて前進し敵を攻撃した。騎兵部隊を栄光で包んだこの大胆な機動は、我々の部隊が置かれた状況の結果必要になったものだった。
この機動に対抗しようと試みた敵騎兵は完全に打ち負かされた。殺戮は恐ろしいものだった。ロシア歩兵の戦線は2列目まで貫かれ、3列目が森林に拠ることで持ちこたえただけだった。親衛隊のいくつかの大隊は敵軍全てを2回通り抜けた」
J. David Markham "Imperial Glory" p143
続いて戦闘参加者の証言を以下に並べる。
「危険は切迫しており、彼[ナポレオン]はドルゼンヌの指揮する擲弾兵及び猟兵の第2連隊を前進させることを決断した。胸甲騎兵は方陣を打ち破り、恐ろしい殺戮をもたらした。
我々の擲弾兵は一発も撃つことなく銃剣でロシア近衛部隊に襲いかかり、同時に皇帝は擲弾騎兵と猟騎兵の各2個大隊を彼らに突撃させた。彼らはあまりに素早く突進したため擲弾騎兵はロシア軍の全戦線を突破し、その全軍を迂回した。彼らは血まみれで帰還し、落馬して捕虜になった何人かを失った」
"The Note-Books of Captain Coignet" Napoleonic Literature"http://www.napoleonic-literature.com/"
「とうとう私は完全に気を失い、私のすぐ傍とおそらく体の上を通り過ぎて突撃のために前進したミュラの大隊による強力な蹄音にも意識を回復されることがなかった」
"The Memoirs of Baron de Marbot Volume I" Napoleonic Literature"http://www.napoleonic-literature.com/"
Consulat et Premier Empire"http://www.histoire-empire.org/"にはアイラウの戦いに関するページがあり、いくつかの当事者のコメントが掲載されている。親衛隊の大尉デニス=シャルル・パーキン、同じく親衛隊の古参兵フランソワ=フレデリック・ビロン、そして第24歩兵連隊の大尉ジュール・マルニエなどの証言だ。ダヴーの証言もある。
といっても、このうちビロンの証言は親衛擲弾騎兵ルピック大佐が戦場から生還したことを述べているだけなので、突撃の様子を調べるにはいささか不十分。そこで、他の関係者の証言を紹介しよう。ダヴーについてはGallicaで彼の書簡集を調べてみたが、なぜかアイラウの戦いの途中でデータが消滅しているため、やはりこのサイトから引用する。
「皇帝は叫んだ。『ミュラ、お前が持つ騎兵全部を率いて私のためにこの部隊を押しつぶせ』。命令はすぐに実行された」――パーキン
「この巨大で圧倒的な突撃は、密集した敵を混乱させることで、一時は中央で危険にさらされていた戦闘を盛り返した」――ダヴー
「ルピック大佐率いる第1親衛擲弾騎兵連隊の2個大隊は突撃によって多くの歩兵の戦線を破壊した」――マルニエ
以上、読んでみて分かるのは騎兵突撃に関する詳細な記録を残している当事者が存在しない、ということだ。各部隊がどのような隊形を組んでどういう順番で突撃したのか、全部で何個騎兵大隊が突撃に加わったのか、詳細は分からない。公報とパーキンは騎兵全部が突撃したかのように記しているが、コワニェは胸甲騎兵と親衛騎兵、マルニエは親衛騎兵のことにしか触れていない。マルボに至っては何も見ていないという有様だ。
ロシア側がこの騎兵突撃に対してどう対応したかも曖昧だ。公報、コワニェ、マルニエの記録にはline(ligne)という文字が出てくるが、前後の文脈を見る限りこれを「横隊」と解釈するのは無理そう。上に翻訳したように「戦線」の意味だろう。また、コワニェは胸甲騎兵が方陣を打ち破ったと書いているのだが、この一文は前後と全くつながりがなく、彼が何を言いたいのか推し量ることすら難しい。
要するにミュラの突撃は有名な割に内実に乏しい記録しか残っていないということだ。それぞれの記録が書かれた時期を見ると公報が最も早く、ダヴーの記録は時期不明、パーキンの本が早くて1843年、マルニエが1849年、コワニェは1851年となっている"http://www.napoleonic-literature.com/"。他の史料が公報の記述に引きずられた可能性は否定できない。
それでも突撃があり、一定の成果を上げた点では一致しているからいいではないかとの見方もあるだろうが、そう判断するのは早計に過ぎる。史実を確認するのであれば、フランス側だけでなく、敵であるロシア側の発言も調べるのが筋だろう。まずはアイラウの戦いに関するロシア側公式記録を見てみよう。
「この時、歩兵に支援されたいくつかのフランス軍騎兵大隊が我らの中央左寄り近くに到着し、隙間を発見して我々の第一線を通過して背後にやって来た。コサックといくつかの騎兵が彼らに襲いかかり、たった18人だけが逃げ出すのに成功した」
Robert Wilson "Campaigns in Poland 1806 and 1807" p240
他の参加者は以下のように述べている。
「吹雪の間にフランス胸甲騎兵1個連隊がロシア軍中央と左翼の間にある隙間に入り込んだ。しかしコサックといくつかのユサールが彼らに気づくや否やすぐに彼らを打ち負かした。明らかに彼ら自身の企図の大きさに惑わされた人間のように、胸甲騎兵は成功への準備ができていないまま野営地の背後を抜けて大掛かりな迂回路を通り、旋回してロシア軍右翼の右側へと向かった。しかし彼らの部隊は移動中に絶えず追撃を受け、たった18人だけが生きて逃げのびた」
Wilson "Campaigns in Poland 1806 and 1807" p103
「午前11時頃、激しい雪のため視界が悪化し戦闘は15分ほど停止した。そして、フランスの近衛胸甲騎兵2個大隊が方角を失い、我々の歩兵と騎兵の間に迷い込んだ。彼らの内ほんの少数だけが逃げのびた」
Alexey Yermolov "The Czar's General" p82
大陸軍公報に描かれたものとは随分異なる。ロシア側の視点ではフランス軍の騎兵突撃として認識されているのが「いくつかの大隊」(公式記録)「1個連隊」(ウィルソン)などとかなり小規模にとどまる。エルモロフに至ってはたった2個大隊の存在にしか触れていないほど。上に紹介した記録だけを元にアイラウの戦いを再現したら、おそらく「ミュラの突撃」などは存在しない歴史ができあがるだろう。
ただ、ロシア側でもミュラの突撃があったと述べている人物もいる。パルチザン指揮官として有名なデニス・ダヴィドフだ。
「眼前の危機に伴って不屈の意志を高めたナポレオンはミュラとベシエールに対し、オープールの3個師団、クライン、グルーシー及び親衛騎兵と伴に、雄叫びをあげて突撃し我々の兵を叩くよう命じた。この行動はオージュロー師団の一部でも救い我々の攻撃を阻止するために重要だった。60個を上回る騎兵大隊が退却する部隊の右側を駆け抜け、剣を振りかざして我々に向かってきた」
Denis Davidov "In the Service of the Tsar against Napoleon" p37
フランス側の記録ですらろくに触れられていない個別部隊名が、ロシア側にいたダヴィドフの記録にこれだけ出てくるのがまず驚きだ。もう一つびっくりなのが、ロシア側の戦いぶりに関する描写がとても具体性に欠けていること。
「フランス騎兵は我が軍の最前線を突き破り、その激しい突撃は我が軍の第二線と予備部隊にまで到達した。しかしここで彼らはより強固な意志の壁を前に粉々になった。我々の兵は踏みとどまり、動揺することなく集中した砲撃と射撃で恐ろしい高波を押し返した」
Davidov "In the Service of the Tsar against Napoleon" p38
最前線(第一線)の部隊がどのような隊形を取っていたのか、それがなぜフランス軍の突撃によって打ち破られたのか、第二線はどんな隊形で敵の撃退に成功したのか、そのあたりがさっぱり分からない。ロシア側の参加者のくせにフランス側に関する記述の方がはるかに具体的という、世にも奇妙な記録である。
ウィルソンの本は1810年出版であり、かなり時期は古い。それに対しダヴィドフの本は早くて1828年、エルモロフは1863年。新しいものほど信頼度が低くなると見ていいだろう。
以上を踏まえて考えると、アイラウにおける「ミュラの突撃」は一般に言われているほど明快な史実ではなさそうだ。少なくともその規模や効果については、当事者間でかなり顕著な意見の不一致が見られる。突撃があったことまでは否定できないものの、それが戦史に残るほどのものであったかというと疑問が残る。
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