砂漠の行軍

 ナポレオン漫画最新号だが、砂漠の行軍にまた随分と時間をかけているな。まだダマンフールにすら到着していないとは驚き。この調子だとピラミッドの戦いまでたどり着くには相当な時間がかかりそうだし、ましてシリア遠征とかジャザール登場とかになると果たしていつになれば掲載されるのやら見当もつかない。イタリア遠征同様、長い長い展開になりそうだ。

 史実との比較で行くなら、今回もまた比較的歴史に忠実である。正確に言えば各種回想録に忠実な描写が中心で、いかにもなフィクションは少ない。流石に接近する直前まで蜃気楼であることに気づかないというのは嘘だが、蜃気楼を見たという証言が多数あるのは確かだ。例えばブーリエンヌは「蜃気楼が常に薄く広がった水を見せていたが、我々が進むとそこにあるのは深い地割れのある不毛の地だけだった」(Mémoires de M. de Bourrienne sur Napoléon, Tome Second"http://books.google.com/books?id=88EWAAAAQAAJ" p83-84)と記しているし、サヴァリーも蜃気楼に言及している(Mémoires du Duc de Rovigo, Tome I."http://books.google.com/books?id=wbMUAAAAQAAJ" p56)。
 面白いのはエジプト学士院がまとめた本の中で蜃気楼に関する考察が述べられていること(Memoirs Relative to Egypt"http://books.google.com/books?id=1z4GAAAAQAAJ" p74-90)。著者はガスパール・モンジュで、蜃気楼が光学的な現象であろうと指摘している。面倒なので細かいところまで読んではいないが、このあたりはいかにも近代ならではの挿話かもしれない。
 今月号に描かれているアレキサンドリアからナイル河までの行軍だが、ダマンフール経由で砂漠越えを行ったのは全5個師団の一部だけ。回想録の書き手によって異なるのだが、少なくとも1個師団(デュギュア)は海沿いにロゼッタまで行軍してそこからナイルを遡っており、砂漠越えを行った師団のように渇きに苦しめられることはなかったようだ。カイロへの進軍はロゼッタ経由で行軍した師団が合流した後に始めているので、結果的には砂漠越えを全くしなくても行軍日程には差はなかったと思われる。まあそういった部分が漫画で描かれることはないだろうけど。
 ダマンフールへ進んだ部隊の前衛を務めたのは、漫画にも描かれているようにドゼー師団だった。漫画ではダヴーもいるが、彼はこの時期、総司令部付きの将軍だったので、ドゼー師団と一緒に行動していたかどうかは疑わしい。彼がドゼー師団の麾下に入ったのは部隊がナイル河にたどり着いた7月11日だった(John G. Gallaher "The Iron Marshal" p43)。また漫画ではデュマも兵士と伴に行動しているが、実際には彼はボナパルトの司令部と一緒に短時間のうちに砂漠を一気に渡っている(Gallaher "General Alexandre Dumas" p108)。このあたり、回想録だけではフォローしきれない部分については史実とズレが生じている。
 逆に回想録で紹介されている挿話はほぼそのまま使われている。目を抉られた母親の話がそうで、この話を書いているのは絵描きのドゥノンことヴィヴァン=ドゥノンのVoyage dans le Basse et la Haute Égypte, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=MS0PAAAAYAAJ"だ。同書p70-72に、嫉妬深い夫の手によって殺された妻と、その夫が兵士たちによって殺害された話が載っている。もっともデュマは登場しないが。
 ミール将軍ことミルール(MireurまたはMuireur)准将の話は、ミオーのMémoires pour servir à l'histoire des expéditions en Egypte et en Syrie"http://books.google.com/books?id=FKwUAAAAQAAJ"のp32-36に載っている。馬を購入したばかりの准将が、その乗り心地を試すために宿営地から離れたところまで移動してしまい、待ち伏せていたアラブ人に殺されたという。この話はかなり早い段階からフランス軍内では知られていたようで、ナポレオンは1798年7月24日に書いた総裁政府宛の手紙(Correspondence de Napoléon I, Tome Quatrième"http://books.google.com/books?id=QLau3UYGYawC" p253)の中で、ミルールが宿営地から離れたところでベドウィンに殺害されたという話を紹介している。
 ミオーはミルールがエジプト遠征に不満を抱いていたとも書いているので、漫画に描かれた彼の死に様はそのあたりと強調したものだろう。だが実際には彼はベドウィンに殺されたのではないとの指摘もある。ドゼー師団の大尉だったデヴェルノワは行方不明になった彼を探した際に「手に握ったピストルで自殺し地面に横たわっているのを見つけた」(Gallaher "The Iron Marshal" p352)と記している。
 Sixによるとフランソワ・ミルールは1770年生まれ。1792年に連盟兵の士官となり、北方軍やサンブル=エ=ムーズ軍で従軍した後にベルナドットとともにイタリア方面軍に転戦。97年4月に准将になったという。革命を機に軍へ入って出世していった人物だが、エジプトの過酷な環境下では歴戦の勇士も耐えられなかったのだろうか。

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