フェルディナント・フォン=フンクは1809年にザクセン軍団の指揮官になったベルナドットについても色々と記録を残している。ベルナドットとフォン=フンクは結構親しかったようで、ベルナドットがいくつかの件について自分の見解をフォン=フンクに述べたこともあったようだ。例えばブリュメールのクーデターについては以下のような話をしている。
「総裁政府崩壊後[ママ]、シェイエスと政府指導者たちは、軍事的指導者のみが国家を救い安定化させられることに気づき、彼[ベルナドット]に独裁権力を握るよう提案した。無慈悲さによってのみ最高権力を押し付けられることを見越していた彼は、それを断った。その日から彼は軍服を捨て、黒いフロックコートと山高帽のみを着用し、衆目を集めないようパリの街中には徒歩でのみ姿を現した。
モロー将軍は完全に高潔で軍事的才能を授けられた人物だと、ベルナドットは思っていた。軍団の指揮を執るや否や、彼は道具を使いこなす熟練職人のように冴え渡った。他の面に関しては彼は凡人でとても天才とは言えなかった。彼の守護天使は、最初の三ヶ月以内に災難に遭うであろう政府部内の争いに巻き込まれぬよう、彼を説き伏せるべきだった。戦場では称賛しきれぬほど精力的だった彼は、麾下に軍がいない時には世界で最も怠惰な人物となった。しかしながら彼は人民にとっては偶像かつ最愛の存在であり、そのために皇帝[ナポレオン]は彼を決して許すことはできなかった。
ボナパルトの帰還からブリュメール18日[のクーデター]の間、ベルナドットは彼を避け、しばしば他者から彼を訪問するように提案されるため家にも決してとどまらないようにした。しかしある日、彼はたまたまパリの街中でボナパルトと出会ってしまった。ボナパルトはすぐに馬車を止め、降りて彼に接近し、真心をこめて接したうえで最後に自分と敵対しないことを望むと述べた。
『敵対しませんが、味方にもなりません』とベルナドットは答えた。『彼はそれを決して許そうとしなかった』」
"In the Wake of Napoleon" p244-245
ナポレオンの伝記などで紹介されるのは「ナポレオンが自宅に有力者を招いた時、他の軍人は皆軍服で来たのにベルナドットだけがやる気のない平服で来た」という話だ。だが、当事者の一人がそれと違う話を紹介しているのは面白い。もちろん、ベルナドットの話が事実であるという証拠もないが(というか普通に考えれば街中でばったりなどという話の方が嘘くさい)。
もう一つ、ヴァグラムの戦いに関する記録もある。フォン=フンクが記しているものだが、ここではおそらくベルナドットの主張に加えてザクセン軍人であるフォン=フンク自身の視点(ザクセン贔屓)も混ざっている。
「ここ[ヴァグラム]でザクセン軍は、皇帝とポンテコルヴォ[ベルナドット]の緊張関係の下で苦しんだ。会戦初日(5日)夕方にかけ、ヴァグラム村は決然とした襲撃によって奪えることにポンテコルヴォが気づいた。彼はこの目的のために増援要請を皇帝に送った。しかし増援が来る前に、ヨハン連隊と歩兵の一部を他の目的地に派出せよとの命令を携えた副官がやって来た。憤慨した[ポンテコルヴォ]公は、即座に村への攻撃を命じた。国王連隊は強襲によって村を奪ったが、農家の庭や家々の屋根に散らばっていたオーストリア狙撃兵の一掃には十分に成功しなかった。そして彼は意趣返しのため、報告を持たせて副官を皇帝の下に送った。
『私が会戦の勝利を決定づけたと皇帝に伝えよ。私はヴァグラム村を奪った。敵中央の鍵となる場所だ。敵の両翼は連携を失った。私は右翼を攻撃して主力軍の方へ追い払うつもりだが、村を保持し計画実行を可能ならしめるためにも皇帝は私に強力な増援をおくるべきである』
増援の代わりに皇帝から第2の副官が送られ、ザクセン軍の半数は左翼の他の目的地へ前進せよとの命令を伝えた。同時にオーストリア軍が反撃し、ザクセン軍を村はずれの最後の家々まで押し出した。公は激昂して叫んだ。
『良かろう。彼は会戦に勝ちたくないらしい。だが、それでも私は勝ってみせる』
そして彼は護衛隊に攻撃を命じ、彼らはオーストリア軍を村の反対側の端まで追い出した。だが、その間に教会墓地近くの斜面に布陣した[オーストリア軍]砲列によって、彼らの動きは止められた。襲撃の犠牲は大きく、村の側道や農家の庭では激しい戦闘が行われた。あたりは暗くなりつつあった。支援のため前線に移動してきたハルティッチュ旅団は、村にいるザクセン兵をオーストリア兵と間違えて射撃を始めた。村のザクセン兵も撃ち返し、ハルティッチュ将軍は致命傷を負った。大混乱の中で村は再び失われた。
公は即座に部下を再編し、敵の砲撃を受けながら翌朝までアーデルクラー近くを保持した。彼が皇帝の命令を受けて後退したのは、その後である。日没後においてすら、彼は無駄ではあったが教会墓地背後の砲列に対して近衛騎兵2個大隊を投入したほどだ。
もし村への最初の成功した攻撃が支援されていれば、初日のうちに決着がついていただろう。そして皇帝は再び彼に徒労に終わった攻撃を実行させ、怒りを抑えきれなくなった公が引き止められた増援について皇帝を猛烈に非難したため、彼を避けた。ダヴー元帥がマルクグラーフェンノイジーデルで敵右翼を迂回した後になって、ようやくウディノ軍団がヴァグラム奪取に成功した。
公はフランクフルター・ツァイトゥングに報告書を掲載させた。その中で彼は、5日夕方に彼がヴァグラムを占拠したと宣言した。軍の公式記録はこれを否定しており、ヴァグラム奪取の名誉をウディノに帰している。どちらも事実だ。ポンテコルヴォ公は、彼を偶像視していたザクセン軍の指揮権を会戦の数日後に解かれ、そしてゼーラントに送られて英国軍をフリシンゲンから立ち退かせた。ザクセン兵は彼らが正当に得た名声と彼らの勇気に対する報いを騙し取られた。他の場所で雄々しく戦った騎兵のみに対して、皇帝は満足の意を表した」
"In the Wake of Napoleon" p245-247
ベルナドットがザクセン軍に対する布告を載せた新聞の名前が判明。他にもザクセン軍が分遣隊派出によって兵力が落ち込んでいたこと、夜間に同士討ちがあったことなども指摘されている。一方で独自の指摘(ヴァグラム攻撃をベルナドットが主張したこと、アーデルクラーからの撤収を皇帝が命じたことなど)もある。これまた興味深い文章だ。
親しかったフォン=フンクの前では皇帝に対する不満をぶちまけることもあったのだろう。そうしたやりとりが回想録のネタになったものと見られる。ベルナドットの愚痴が残って後世に伝わっていると考えると、それもなかなか楽しいものだ。
コメント
No title
話が傾きましたが、当時の軍人は私生活では平服で過ごすことが多かったのでしょうか。肖像画などで軍服姿が圧倒的に多く描かれているせいか、平服姿がピンと来ない人が多いのですが。
2009/05/25 URL 編集
No title
2009/05/27 URL 編集