スモレンスクとモスクワ

 引き続きZamoyskiの"Moscow 1812"関連の話。
 まずはバグラチオンに関する指摘だ。スモレンスクで第1、第2西軍が合流した後、ロシア軍はヴィテブスク付近にいる大陸軍に対する攻勢を決定する。第1西軍が右翼側2個縦隊(トゥチコフとドクトゥーロフが指揮)、第2西軍が左翼の1個縦隊(バグラチオン指揮)を構成し、プラートフのコサック部隊が前衛となった。
 この攻勢はロシア軍の事実上の指揮官だったバルクライ=ド=トリーの反対を押し切る形で実行されたものだという"http://www.napoleon-series.org/military/battles/c_mutiny4.html"。そのせいか、バルクライは作戦の実行には不熱心であり、前進を初めてまもなく大陸軍が右翼方面にいるという未確認情報(後に間違いと判明)が入ると、当初の予定を変更し進撃する方向を変えるよう各縦隊に命じた。
 その後、さらに情報は錯綜。バルクライの命令もかなり混乱した(副官のレーヴェンシュテルンが『初めて彼の決断を支持しなかった』と述べるほどだったらしい"http://www.napoleon-series.org/military/battles/c_mutiny5.html")。バグラチオンは次々と混乱した命令を受けることになったという。問題はここからだ。Zamoyskiは以下のように述べている。

「彼[バグラチオン]は怒りのあまりバルクライの命令を無視する決断をした。彼はスモレンスクの方角に向かっており、その動きを続けることに決めた。かくして3つのロシア軍縦隊のうち2つがフランス軍へ向けて行軍し直している間、3つ目は断固として反対の方角へ遠ざかっていったのだ」
Zamoyski "Moscow 1812" p211

 バグラチオンによる公然の不服従だ。結果的にはこの行動によってナポレオンがスモレンスクにたどり着く前にロシア軍はそこの守りを固めることができた。終わりよければすべてよしだが、バグラチオンが命令無視をしたのは確かである。Zamoyskiの書いていることが正しければ。
 そう、実際にはZamoyskiと違うことを書いている人もいる。Alexander Mikaberidzeによれば、この時の状況は以下のようなもの"http://www.napoleon-series.org/military/battles/c_mutiny5.html"になる。

「その間、クラスノエの戦闘[スモレンスク防衛のためドニエプル南岸に残されたロシア軍部隊と大陸軍の戦闘]に関するニュースが主力軍の下に届いた。バグラチオンはすぐ彼の軍をスモレンスクへと引き返させた」
Mikaberidze "The Mutiny of Generals"

 命令違反の結果ではなく、あくまで戦闘の情報が届いたから引き返した、というのが彼の指摘。どちらが正しいのかを判断するにはおそらくロシア語の一次史料を調べる必要がありそうだが、私にはとてもそんなことをする能力はない。

 もう一つ、面白い指摘はボロディノの戦いにおける両軍の戦力数だ。戦いの5日前、9月2日にグジャーツクでナポレオンが集計させた戦力は12万8000人。さらに数日内に合流可能な兵力が6000人で、合計は13万4000人となる。だが、ナポレオンが集めた数値が信頼性に乏しいことは前にも指摘した通り。「現在、ロシアの歴史家はフランス軍兵力を12万6000人以下と見積もっている」(Zamoyski "Moscow 1812" p258)。
 この数字は他の本に書かれているものとそう変わりはない。Christopher Duffyは13万3000人、Paul Britten Austinは13万人という数字を出している。しかし、ロシア側の数字はそうではない。

「ロシアの歴史家が残した初期の記録ではクツーゾフの軍勢は11万2000人以下となっていたが、最近の推計は15万4800人から15万7000人となっている」
Zamoyski "Moscow 1812" p258-259

 DuffyやAustinが12万5000人と見積もっているロシア軍の戦力について、Zamoyskiは(というか彼の言葉を信じるなら最近のロシア側研究者は)通説より3万人強多かったと指摘しているのだ。この数字は民兵(約3万人)やコサック(約1万人)を含む数字であるが、それにしても驚くほど多い数字であることは確かだ。
 もしこれが正しいのなら、ロシア側はこの時点でついに兵力で大陸軍を上回るのに成功したことになる。にもかかわらずクツーゾフは攻撃には出ず、むしろ防御的な戦闘を望んだ。そして、部隊をあまりにも広範囲に散開させたため、集中的な部隊運用を行った大陸軍によって多大な損害を被ることになった。大陸軍の損害2万8000人に対し、ロシア軍の損害は4万5000人(Zamoyskiはもっと多かったに違いないと指摘している)に達した。
 ボロディノの結果を見る限りロシア軍にいいところはなかったが、その時点でかき集めた兵力を比較すると戦略的にはロシア側の対応は正しかったことがうかがえる。要するに批判を浴びながらもバルクライが退却戦を続けてきたこと、そのバルクライを(途中までだが)皇帝アレクサンドルが支持したことは、ロシアにとって正解だったということになるのだろう。

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