カタロニアと兵站

 John MorganのWar Feeding War?"http://www.smh-hq.org/731.html"を入手、読了した。そう、結局10ドルでpdfファイルを購入してしまったのだ。それにしてもこんなにあっさり購入できてしまうとは、実に便利な時代である。と同時に出費へのハードルがかなり下がったことも実感。ちょっと気になる文献をホイホイ購入していたら、どんどん財布が軽くなりそうだ。
 それはともかく、中身については期待通りだった。半島戦争中におけるカタロニアでの補給実態についてここまで詳細に記した文献にお目にかかったことはない。いやカタロニアだけでなく、ナポレオン戦争全体を通じて補給に関するここまで詳しい分析はほとんど存在しないだろう。そこから得られる一番の教訓は、おそらく「事前の下調べはきちんとしよう」というものだ。
 Morganによると、カタロニアはそもそも半島戦争が始まる前から地域内で食糧を賄うことができず、域外(フランス、東地中海、北アフリカなど)からの輸入に頼っていたという。地域の農業が葡萄やオリーブなどの商業作物に偏っていたのも特徴。このような状況では、ナポレオン時代のフランス軍が得意とした現地調達、War Feeding Warはそもそも不可能であることが分かる。
 だが、フランス軍はそうした事情について分析することなくカタロニアへ出張ってきたようだ。ナポレオンは1806年から欧州各地の政治的経済的分析を少しずつ始めていたが、カタロニアに関する分析が行われたのは1812年。同地への侵攻が始まった1808年からは4年も後の話だった。カタロニアの状況を知らないフランス軍はバルセロナに(当時は同盟軍として)最初に到着した時点で6000クァルテラ(426トン)の小麦供給を求めたが、実際に入手できたのは600クァルテラでしかなかったという。それしか小麦がなかったからだ。
 フランスとスペインが戦争状態に入ると状況はさらに拙くなった。フランス軍は当初、支配した地域に分担金を課したうえで、その金を使って物資を購入するというシステムを採用していた。だが、戦争開始に伴い英国艦隊がカタロニア沿岸を封鎖。1808年4月時点でバルセロナにいた外国船は142隻に達していたが、これが7月にはたった7隻に減少したという。当然、必要な食料の輸入もほぼ止まってしまった。供給が減れば経済学の法則通りに価格が上がる。契約商人に支払う金額はうなぎ上りに上がっていった。
 バルセロナのフランス軍は住民に課す分担金を増やしてこの状況に対応しようとした。住民は生活苦もあってやがてバルセロナを逃げ出す。スペイン軍やゲリラによって封鎖状態に置かれたバルセロナでは騎兵用の馬匹まで食べる羽目に陥り、いよいよ住民は減っていった。戦争前には10万人を超えていたバルセロナの人口は、1810年には3万6000人にまで落ち込んだという。補給問題が軍隊だけでなく地域経済にも破滅的な影響を与えたことがよく分かる数字だ。

 分担金を集めて物資を購入するという仕組みが使えないことが分かった段階で、フランス軍は実力行使を始めた。自ら農村に出かけて直接食糧などを集めてくるのもその一つ。だがこれは地域住民から反発を買うし、そもそも住民の需要すら賄いきれない地域の食糧生産事情を考えれば根本的な解決にはならない。おまけに農村部を狙っているのはゲリラやスペイン軍も同じだし、味方である筈のフランス軍でもアラゴン方面の部隊とカタロニアの部隊が食糧の取り合いをしていた。
 ではどうするか。食糧を入手できるところから運んでくるしかない。最も手近なのはカタロニアに接したフランス南部地域から運んでくる手であり、それ以外にもフランス軍がまだ手を伸ばしていなかったカタロニア南西部の比較的肥沃なウルヘル地域を押さえることが考えられる。だが、たとえ食糧を集められても、それだけでは補給はできない。運ぶ手段を用意し、実際に運ばなければ、溜め込んだものもそのまま腐っていくだけだ。そしてその「運ぶ手段」と「実際の運搬」こそがフランス軍にとっては最大の問題だった。
 航空機のなかった時代に実効性がある手段は陸運と水運である。このうち陸運にとっての困難は、農村を中心に活動していたゲリラやスペイン軍だった。少数の輸送隊で物資を運ぼうとすると彼らに襲われてしまう。それを防ぐには護衛をつければいいわけだが、その護衛も数が少ないと次第に機能しなくなっていった。1810年3月にオージュローはフランス南部からバルセロナまで巨大な輸送部隊を送る際に、3個師団もの護衛をつけた。6月には5個師団、2万5000人もの兵が輸送護衛に使われた。
 これだけ多数の部隊をただの輸送護衛任務に貼り付けてしまうと、他の作戦に深刻な影響を与える。実際に与えていたと見るべきだろう。護衛だけでなく、例えばグーヴィオン=サン=シールが補給のしやすい肥沃な地域に戦域を移動させるなど、兵站がフランス軍の作戦を規定していた様子が窺える。
 多数の師団を投入した輸送作戦は成功することが多かったようだが、補給効率の面から見ればいいやり方ではない。効率を追求したロジスティクスといえばjust in time。だが大規模なコンボイを組んで多数の護衛を雇う輸送法はjust in timeとは全く逆だ。何より問題なのは、多数の車両と馬匹が必要になること。それだけの馬匹や車両を(例えばフランス南部から)調達すると、今度は調達された地域の経済活動に深刻なダメージを与える。
 残された手段は水運だ。特に海に面したカタロニアでは海運は有効な手段であることは間違いない。問題なのは、この時期のフランス海軍は英国海軍相手にほとんど勝負できる状態になかったこと。英国海軍によって封鎖されたカタロニア沿岸で、必要な物資を船で運ぶのは極めて困難だった。
 海からの補給は2種類の方法があった。一つはツーロンの海軍に護衛させた輸送船団を使った大規模な補給だ。だが、これは上手くいくこともあれば失敗することもあった。1809年4月に実行した輸送作戦は英国海軍が強風のため避難していたこともあって成功したが、同年10月の作戦では輸送船団が壊滅させられたという。ツーロンの艦隊自体が英国海軍による封鎖を受けていたこともあり、この方法だけに頼るのも難しかった。
 もう一つはカボタージュと呼ばれる沿岸貿易船を使った輸送方法だ。30トンくらいの小さな船舶を使った輸送法は、他の手段がうまく行かない中で採用された「唯一の解決策」だった。だが、これもまた英国艦隊の目を逃れることはできなかったようである。1811年の報告では、海運は必要な物資のごく一部しか運べなかったと結論づけた。
 本気でカボタージュ輸送を成功させたければ、沿岸部に砲兵を並べてその「大砲の傘」で小型船を守る必要があった。だが、ただでさえ運用に苦労していたフランス軍がさらにそのような作戦を本気で実行していれば、さらに軍事作戦への束縛が強くなっただろう。そもそもカタロニアの長い海岸線を全部守るだけの砲兵を配置すること自体、どれほど可能だったのか怪しい。カタロニアのゲリラやスペイン軍は英国海軍からの補給を海岸線で受け取っていたようであり、フランス軍は沿岸部を全て押さえることすらできていなかった。

 Morganによるとナポレオンはカタロニアをスペインから独立させ、フランス帝国へ編入することも考えていたようである。だが、それならそもそもカタロニアに侵入しなければ良かったのではないだろうか。軍隊を送り込み、地域から必要な物資を調達しようとしたから状況は困難になった。カタロニアを特別扱いし、スペインからの分離運動を政治的に支援した方が、軍隊を送り込んで地域住民の反発を買うよりはるかに良かったように思える。
 それもこれも、事前の調査が足りなかったためだろう。カタロニアが経済的に現地調達に向かないことを最初から把握していれば、軍を送り込むのをためらっただろうし、送り込んだとしても最初からもっと兵站に注意を払っていた可能性がある。ナポレオンのやり方があまりにも武断的であり、かつ日和見的であったことを示す一例かもしれない。

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