ロシアへ

 頼山陽が「仏郎王歌」でナポレオンを取り上げた時、そこで取り上げられていたのはナポレオンのロシア遠征だった。このロシア戦役を舞台としているトルストイの「戦争と平和」も、世界的な文学作品として知られている。英語圏ではワーテルローの比率も高いようだが、世界的に見ればナポレオンとつながりの深い事実として広く知られているのはロシア戦役だろう。
 だが、人口に膾炙しているからといって正確な史実が広く知られていることにはならない。特にこのロシア戦役はナショナリズムと結びついて描かれることが多かったために、実態がさらにわかりにくくなっている面もあるようだ。
 特にロシアにおける戦役研究史は政治の影響を大きく受けたとか。Adam Zamoyskiの"Moscow 1812"によると、まずこの戦役を最初に「祖国戦争」と呼んだのは帝政期の軍人Mikhailovski-Danilevski。20世紀に入り革命が起きると、いったんは戦役の評価も下がり帝国主義勢力による戦争と位置づけがなされたが、スターリン時代に入って再び「祖国戦争」の呼び名が復活し、クツーゾフは英雄に祭り上げられた。
 もう一つ、ロシアの研究史でしばしば見受けられたのが、両軍の兵力に関する操作だ。「祖国戦争」と位置づけされた過程で、大陸軍の兵力は絶えず過大評価され、逆にロシア側は寡兵でその大軍に立ち向かったように描かれたという。これもまたナショナリズム涵養のための方便、というか研究者が権力者に阿った結果なのだろう。
 実際、今もなおロシア遠征時の両軍の兵力については必ずしも研究者の見解は一致していない。多くの本ではナポレオンが最初にロシアへ侵入した際に率いた兵力は45万人と紹介しているが、中には異なる指摘をしている人もいる。Paul Britten Austinは大陸軍の戦力について「百万人の3分の1」、つまり約33万人だったと記しているのだ。実際のところどうだったのか。Zamoyskiは以下のように指摘している。

「一般にロシアに侵略した時の大陸軍の戦力は約45万人と見られているが、これは理論的なデータを計算した結果得られた数値であり、現実は確実にかなり異なっていただろう」
Zamoyski "Moscow 1812" p142

 45万人はあくまで紙の上の数値を寄せ集めたものに過ぎない、というわけだ。そしてその紙の上の数値だが「ナポレオンは先細りする数字を知らされると、それが特に戦闘の損害によって説明できない場合はいつも怒っていたため、責任者たちは単純にその損失を彼から隠していた」(Zamoiski "Moscow 1812" p143)のが実態だという。
 ではどの程度、現実と解離していたのか。若年親衛隊のベルテゼーヌ将軍はしばしば5万人近くと書かれている親衛隊の実態は2万5000人を超えたことは決してなく、2万4000人と言われるバイエルン軍団は1万1000人以下で、全大陸軍は23万5000人より多くはなかったと指摘しているそうだ。
 大陸軍と直面したロシアの将軍たちによる推計も似たような水準。バルクライとプフールは20万―25万人、バグラチオンは20万人、トールは22万5000人。少ない数値になると16万9000人(ベンニヒゼン)や15万人(ベルナドット)との意見すらあった。ロシア側推計で最も多い数値でも35万人。それも予備部隊も含めた数値だという。
 AustinやZamoyskiの本を読めば分かるが、戦役参加者の多くは大陸軍がロシア国境に到着するはるか前からかなりの損耗に見舞われていたことを指摘している。45万人を維持したまま国境へたどり着いたとは考えにくい。Zamoyskiは大陸軍兵力について、45万人という通説に比べ多くてその4分の3(約33万人)、少なくて3分の2(約30万人)と推測している。要するにAustinと同じ考えだ。

 では、ロシア軍の戦力はどうだったのだろう。実はロシア側の戦力は一般的な兵力と、そのうちから支援業務についていた分を除く「前線戦力」という二種類の数値が出回っているという。たとえば第1西軍は「前線戦力」は12万7800人だが、支援部隊を含めた全戦力は15万9800人、第2西軍は5万2000人/6万2000人、第3軍は4万5800人/5万8200人となる。全体では22万5000人/28万人だ。
 大陸軍の戦力は、ロシア側の数字と比べるなら「全戦力」の方に相当する。つまり、前線に展開した部隊はロシア軍28万人に対し、大陸軍が30万―33万人。大陸軍側が圧倒的な優位にあったわけではないことが分かる。いや、それどころか上に記したロシア側推計の大陸軍戦力よりはロシア軍の方が数が多かったりするのだ。
 バグラチオンをはじめとしたロシア軍将帥たちの中に、退却に反対する連中が多かったのもそう考えれば当然だろう。相手より数が多い(と思っている)のになぜ領土を明け渡して後退しなければならないのか。それでもロシア軍は国境に近いヴィルナをあっさり捨てて後退した。Zamoyskiはプフールの打ち出したドリッサへの退却作戦を皇帝アレクサンドルが採用したためだとしている。
 しかし、ドリッサの陣地が軍事的には全く役立たないとクラウゼヴィッツも含めた数多くの人間が指摘したため、ロシア軍は結局この地をあきらめることになる。アレクサンドルの側近はこれ以上皇帝を軍の指揮にかかわらせないよう彼をサンクト=ペテルブルクへ引き上げさせ、残ったバルクライはまずまともな陣地のあるヴィテブスクへ、さらにバグラチオンとの合流を目指してスモレンスクへと後退を続けた。
 こうした話から、もう一つ分かることがある。それは「ロシア軍は計画的な退却・焦土戦術を実行したのではない」ということだ。彼らはそもそもワルシャワ大公国への侵攻も視野に入れて国境付近に集結していた。必要な物資も前線付近に集めていたのだ。それが実際には急遽、退却することになり、ロシア軍はせっかく集めた物資を破棄しなければならなくなった。
 にもかかわらず大陸軍が、特にリトアニアを移動している際にあれだけの損耗を被ったのはなぜか。理由の一つは、この地域に直前までロシアの大軍がとどまっていたことにあるのだろう。彼らが必要な物資を地域から奪い取った後にやって来た大陸軍は、必要な物資を現地で調達することができず、特に戦争に不慣れな新兵が大きな損失を受けることになったと思われる。
 もう一つ、そもそもリトアニア地域は人口が少なく、現地調達に向かない地域だったとの説明もある。Zamoyskiはパリからニェーメン河までの1500キロのうち「最後の300キロはプロイセンとポーランドの中でも貧しくやせた地域」だったと指摘し、さらにロシア国境から500キロはさらに豊かさに欠けた地域だとも記している。ロシア側が組織的に焦土を作ったのではなく、元から焦土のような場所だったという訳だ。

 という訳でZamoyskiの本を参考にしながらロシア戦役について記してみた。特にその戦役初期においてはナポレオンもロシア側も極めて優柔不断で、互いにふらふらしながら気が付けば舞台がロシア内部へ移動していった、というのがZamoyskiの描く1812年戦役の実態だ。

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