デュムリエとルブリュン

 Patricia Chastain Howeの"Foreign Policy and the French Revolution"読了。題名だけ見ると分からないが、実際にこの本で取り上げている"Foreign Policy"はフランス革命戦争の初期、つまり1792年から93年春までの時期が対象である。この時、フランスの外交(及び戦争)は2人の人間に主導されていた、というのが著者の主張。その二人とは、副題に登場するCharles-Francois Dumouriezと Pierre LeBrunである。
 Dumouriez"http://fr.wikipedia.org/wiki/Charles_Fran%C3%A7ois_Dumouriez"の名はフランス革命について詳しい人間なら誰でも知っているだろう。ただ、いい評価をする人はほとんど存在しない。彼に対しては「裏切り者」であるというレッテルが貼られており(例"http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/event/t.html#dumouriez")、この最終的な行動を根拠に彼が行ったそれ以前の一連の行動を全て評価する傾向が強いのだ。
 後世の評価という点で似ているのはベルナドットだろう。1812年に彼が連合軍側についたのを理由に、1806年や09年のベルナドットについて「意図的にフランス軍の足を引っ張った」と極論を述べる向きが後を絶たない。同様にデュムリエについても1793年4月にオーストリア軍に身を投じたのを論拠に、それ以前のデュムリエがどういう人物であるかを決め付ける論調がしばしば見られる。
 デュムリエの場合、彼が最終的に連合軍に身を投じたのを論拠に彼が元から王党派であったと解釈するのが通説だ。しかもデュムリエ自身、回想録では自らがずっと王党派であったかのように語っている。だが、本当にそうなのか、というのがHoweの視点。デュムリエ王党派説は、本当に史料に裏付けられた蓋然性の高い説なのだろうか。
 そうではないというのがHoweの結論だ。その論拠になるのはデュムリエがリアルタイムで記した報告書や手紙などの史料。Howeによればデュムリエは理想主義的なところのある革命支持派、少なくとも立憲君主制支持者であり、絶対王政を唱えるエミグレらとは異なる価値観を持っていた。その価値観が明確に現れたのが、彼が外務大臣から前線指揮官となっていた1792-93年に追求した外交政策、つまりHoweの言葉による「ベルギー政策」である。
 デュムリエが最優先課題として取り組んだのはベルギーの独立である。当時のベルギーは(そもそもベルギーというまとまった国家は存在しなかったが)ハプスブルク家の支配下にあった。その地域を、フランスと同様に住民の主権に基づいた独立国にするというのがデュムリエの狙いだった。もちろん最終的にはそれがフランスにとってもプラスになるという判断だが、直接の目的はベルギー市民の自発的意思による独立である。
 ジュマップの戦いでフランスがベルギーを占領した後、デュムリエはこの原則に従ってベルギー住民が投票で代表者を選び議会を構成するよう取り組みを進める。だが、フランスの方にはベルギー独立ではなく併合を目論む連中もいた。デュムリエは彼らの行動に反発し、ベルギー住民の利害を優先するような態度を取ることもあった(Arthur Chuquetもそうした話を紹介している)。つまりこの時のデュムリエは、民族自決を唱える理想主義者とでも言うべき行動を採っていたのだ。
 そのデュムリエを支えたのが、彼の後に外務大臣となったLeBrun"http://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre_Henri_H%C3%A9l%C3%A8ne_Marie_Tondu,_dit_Lebrun-Tondu"。彼はフランス人だが長期間リエージュ(当時は司教領)に住んだことがあり、リエージュを第二の故郷と見なしていた。筋金入りの共和主義者だったルブリュンもまたベルギー(含むリエージュ)の独立を目指しており、最前線で奮闘するデュムリエを後方から応援する役目を担った。
 実は革命戦争初期における外交・軍事はほとんど彼らが主導していた、というのがHoweの見解。ジロンド派や山岳派の議員たちは互いの政争に明け暮れている状態であり、対外戦略は内閣にほとんど任せっきりだったのだそうだ。デュムリエが外務大臣の時期は彼が事実上の首相であり、その後も外交についてはルブリュンが仕切っていた。デュムリエの「裏切り」以前において、フランスの外交は彼ら二人のベルギー政策が軸になっていたそうだ。
 彼らの政策は、少なくとも成功している間は特段の反発を受けなかった。ジロンド派だけでなく山岳派も彼らの政策を認めていたし、デュムリエの裏切りを予め予想して彼に反発していた人間がいたようには思えない。唯一デュムリエと対立していたのが一時期陸軍大臣を務めていたパッシュ。彼はデュムリエのベルギー政策よりキュスティーヌが進めようとしていたラインラント侵攻に力点を置こうとしていたが、最終的には陸軍大臣の地位を追われ、その後釜にはデュムリエと親しいブールノンヴィユが就く。デュムリエの方が支持されていたことが窺える話だ。
 ではなぜ革命派の支持を受け、自らも理想主義的な立場を示していたデュムリエが「王党派」になってしまったのか。一つにはデュムリエの裏切り後に山岳派がデュムリエを王党派と決め付けたことがある。山岳派はこの事件をジロンド派追い落としに利用しようとしており、そのためにはデュムリエがエミグレと同類だと主張した方が有利だったのだろう。デュムリエ自身が国王支持であったことを窺わせる回想録を残したのも要因だ。デュムリエの目的は就職。フランスに帰れない以上、どこかの君主国に雇われなければならない。昔から王党派であったかのようなふりをしたのは職を得るためだったようだ。
 デュムリエが裏切ったのは、彼のベルギー政策が失敗したから。オーストリア軍の反攻で窮地に追いやられた彼は、このままフランスにとどまっても断頭台に行くだけだと判断して裏切りを決断した。彼は1791年憲法の復活を題目に(絶対王政復活でない点に注意)軍を率いてパリへ侵攻しようとしたが、軍の大半は国民公会側を支持。万策尽きたデュムリエに残されたのは連合軍側へ逃げ込むことだけだった。
 ルブリュンはもっと不運だった。パリにいた彼はまず外務大臣の地位を追われ、さらに山岳派から反革命派として告発される。地下に潜伏したが知り合いにチクられ、逮捕される。革命裁判所で有罪となったルブリュンはギロチン送りとなった。リエージュの筋金入り革命派で、ベルギーにもフランスと同じ革命を起こすべきだと信じていた彼は、皮肉なことに革命を裏切ったとの理由でギロチン送りとなってしまった。

 この本を読んで役立ったのは、まずルブリュンの存在を知ったことだろう。フランス革命史の中でもほとんど脚注でしか紹介されないような人物だが、実は短期間で大臣が入れ替わるのが当たり前だったあの時期に10ヶ月強に渡って外務大臣を務めていた重要人物である。しかも彼の後に行政権限の大半が公安委員会に移ってしまったことを考えるなら、彼が何をしたかは極めて重要だろう。彼とデュムリエの結びつきも含めて、もっと注目されるべき人物だろう。
 というかそもそも、フランス革命史の大半は内政とか経済に重点を置きすぎではないだろうか。日本語で読める本を見ても、外交や軍事に力点を置いてフランス革命史を紹介しているものは(少なくとも一般に入手しやすい本の中では)あまり見当たらない。外交に注目するならデュムリエとルブリュンのベルギー政策など見落とすことはないと思うのだが、この本を読むまでそもそもそういう言葉すら見かけたことがない。外交や軍事と全く無関係に革命が推移したならそれでも構わないのだが、実際にはとてもそんなことは言えない筈だ。
 もう一つ、そうではないかと思っていたことが裏づけられたのは、革命戦争初期におけるデュムリエの重要性だ。皇帝がすべてを仕切っていたナポレオン戦争期はともかく、革命戦争期は「誰が戦争戦略の方向性を決めていたのか」がはっきりしていない。公安委員会にカルノーが入ってからフリュクティドールまでは彼が仕切っていたと見なしていいのだろうが、その前後はかなり曖昧。ただ、個人的にはデュムリエがいる時期は彼が決定者だったのではないかと思ってはいた。今回、この本でその点がほぼ確認できたのは収穫だ。

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