引越しでごだごたしていたが、そろそろナポレオン漫画最新号の感想でも。前回の続きだからアレクサンドリア攻略あたりだろうか、それにしてもアレクサンドリアはあっさり陥落したから盛り上がらなさそうだな、などと考えていたら久しぶりの超展開、長谷川マジックが来た。ここでいきなりアブキール海戦かよ。
フランス軍がアレクサンドリアを落としたのは1798年7月2日。同日付のボナパルトの命令がアレクサンドリアから発信されている(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Quatrieme"http://books.google.com/books?id=9lcuAAAAMAAJ" p190)ので、この日のうちにボナパルトはアレクサンドリアに司令部を置いたのだろう。彼はそこに6日間とどまった後でダマンフールへと出発している。要するにボナパルトがアレクサンドリアにいたのは7月上旬だけだったのだ。
それに対し、アブキール海戦が行われた日付は、ピラミッドの戦い(同年7月21日)よりも後の8月1―2日(The dispatches and letters of vice admiral Lord Viscount Nelson, Third Volume"http://books.google.com/books?id=hlUBAAAAQAAJ" xxxiv)。ボナパルトがアレクサンドリアにいた時期から実に一ヶ月近くが経過した後になって、ようやくネルソンが現れたのが史実である。要するに漫画ではアブキール海戦の時期を史実より一ヶ月近くも前倒ししてしまった訳だ。
何とも豪快な、豪快過ぎるやり方だが、狙いはどこにあるのだろう。個人的には、読者にとって分かりやすくするために史実を曲げたのだと想像している。ボナパルトがエジプトの奥地に出かけ、マムルークを打ち破ってカイロを占領した後になってしまうと、読者もネルソンのことを忘れてしまっている可能性が高まる。そうならないよう、早めに彼の登場を済ませておこうと考えたのではないだろうか。もちろん、ナポレオンが自ら海戦の様子を眺めるシーンを入れて話を盛り上げる、という目的もあるだろう。
フィクションだからネルソンの登場時期が史実と異なっても、それ自体には何の問題もない。問題があるとしたら、この漫画を読んでいる読者の中にこれが史実だと思い込む人が出てくる可能性があること。クートンの車椅子砲やカルノーのトンファーブレードといった分かりやすい「マジック」は、誰もがその存在に気づく。しかし「ネルソン襲来一ヶ月前倒し」といった、豪快な割に気づきにくいマジックには、案外ころっと騙される人が多いのではないだろうか。中でも変に記憶力のいい人が、間違った知識として憶えこんでしまう可能性はありそう。歴史に題材をとったフィクションを読む時には気をつけた方がいいのだろう。
以上、大物を片付けたところであとは細かい部分を。全盛期に比べてアレクサンドリアの人口が減少していたのは史実のようだ。引越したばかりで手元に本が見当たらないのだが、確かJuan Coleの"Napoleon's Egypt"に載っていた話によると、ナイルの流れが変わりアレクサンドリアへ支流が到達しなくなったのに伴い水不足が理由で寂れていったそうだ(このように記憶に基づいて話すと間違える可能性が出てくる)。
ビクトルが掘られたのはネット上でも予想していた人がいたので想定の範囲内だろう。ジョベールという人物がフランスの海軍大臣に宛てて7月9日に記した手紙の中には、「アラブ人とマムルークは、ソクラテスがアルキビアデス相手にしたといわれているような扱いを、我々の捕虜の何人かに行った」(Copies of Original Letters from the Army of General Bonaparte in Egypt, Part the First"http://books.google.com/books?id=2o9jAAAAMAAJ" p26)との文章がある。ソクラテスとアルキビアデスの話はこちら"http://japanese.hix05.com/Folklore/Sex/sex05.homosex.html"を参照。それにしてもガチホモ話を持ち出すのにソクラテスに言及するとは。
ボナパルトの布告が間違いだらけだったというのは、確かシェヘラザードさんも指摘していたが、アル=ジャバルティの記録に書かれていた話。こちらは本が見つかったので確認したところ、"Al-Jabarti's Chronicle of the French Occupation"のp29以降に載っている。文法的な間違いをネチネチと指摘している。
フランス艦隊の食糧不足もこれまた史実。7月12日付でブリュイ提督が海軍大臣宛てに記した手紙では、「我々は船内にたった15日分のビスケットしか持っていません」(Copies of Original Letters from the Army of Bonaparte, p44)と記している。また乗組員は数でも質でも弱いとも述べており、戦う前からかなり弱気になっていたことも分かる。
漫画ではボナパルトが気球に乗ってアブキール海戦を見ているが、もちろんこれは史実ではない。そもそもエジプト占領という大事業が始まったばかりの時点で、のんきに空中散歩などしている余裕はなかっただろう。8000人規模の街で気球を上げたところで、宣伝効果も限られる。ただカイロでは実際に気球を上げたようで、例えば1799年1月12日付のカファレリ将軍への命令では「リヴォリの戦いの記念日である[雪月]25日に気球を上げたい」(Correspondance de Napoleon Ier, Tome Cinquieme"http://books.google.com/books?pg=PA250&id=glouAAAAMAAJ" p250-251)と記している。
ボナパルトと一緒に気球に乗っている眼帯付きの男はバウアー大尉ではなくおそらくニコラ=ジャック・コンテ"http://fr.wikipedia.org/wiki/Nicolas-Jacques_Cont%C3%A9"。彼は気球部隊の士官としてエジプト遠征に同行しており、ボナパルトの命令でカイロでの気球運用に携わったという。ただ、彼の仕事としては気球関連よりクレヨンの一種であるコンテ"http://en.wikipedia.org/wiki/Cont%C3%A9"を発明したことの方が知られている。なお「俺のケツを舐めろ」などと言ったことはないようだ、多分。
アブキール海戦でフランス艦隊より陸側に英国艦隊が入り込み、フランス艦を両舷から包み込むように戦ったのは史実のようで、漫画の後半部分については特に突っ込みどころはない。というか私はあまり海戦には詳しくないので手に余る。ブリュイは艦隊を縦列に並べる際に「先頭艦は可能な限り北西にある浅瀬に接近し、残る艦隊も海が深くなっている部分に沿った曲線に配置することで、何としても南西部からも迂回されないようにした」(Copies of Original Letters from the Army of Bonaparte, p38)ようで、にもかかわらず左舷に回り込まれてしまった彼が驚愕しているのもおそらく史実通りだろう。
次回はアブキール海戦の続きと、場合によっては陸軍のダマンフールへの行軍も描かれるかもしれない。砂漠で渇きに耐えながら行軍するシーンとなるため、またビクトルが酷い目に遭うのではなかろうか。
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